| 中学時代は野球部に所属しエースで4番。 |
| 将来はプロ野球選手になることを熱望していた。 |
| スポーツ推薦で青森山田高校に入学したが、先輩部員と対立し1か月で退部。 |
| かねてより、同郷のレパード玉熊の世界戦を見てボクサーも志望。 |
| 辰吉丈一郎がWBC世界バンタム級王座を獲得した試合をテレビ観戦したのを機にプロボクサーになることを決意。 |
| 高校を中退し単身で上京。 |
| 初めはヨネクラジムに入門するが、大人数の選手・練習生を抱える環境に馴染めず、程なくして京浜川崎ジムに移る。 |
| 同ジムで韓国出身の柳和龍トレーナーと出会い、1993年6月17日、17歳でプロデビュー。 |
| 1993年12月18日、東日本スーパーフェザー級新人王、続く1994年2月13日には大阪府立体育会館での全日本新人王決定戦でも圧勝しMVPを獲得。 |
| 1995年、前年まで元WBA世界スーパーフライ級王者鬼塚勝也のマネージャーを務めていたタレント片岡鶴太郎をマネージャーに迎え入れる。 |
| 1996年3月18日、OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座獲得。 |
| 1度防衛後の同年11月、所属する京浜川崎ジムの会長が不祥事で逮捕されたのを機に、柳トレーナーとともに横浜光ジムへ移籍。 |
| その後、防衛回数を3まで伸ばし1997年7月に王座返上。 |
| 1997年10月5日、無敗のまま世界初挑戦。 |
| 両国国技館でWBA世界スーパーフェザー級王者崔龍洙(韓国)に挑み、フルラウンドの死闘の末、三者三様の引き分けで王座獲得ならず232頁下段。 |
| 1998年3月29日、無敗の日本スーパーフェザー級王者コウジ有沢に挑戦し、9回TKO勝ちで王座獲得に成功した。 |
| この試合は「史上最大の日本タイトルマッチ」と称され、日本タイトル戦では異例の全国ネット生中継(フジテレビで昼間に放送された)。 |
| その後、世界再挑戦準備に専念するため、日本王座は防衛することなく返上した。 |
| なお、この試合は日本タイトル戦としては9年ぶりの年間最高試合に選ばれた。 |
| 1998年9月5日、崔に再挑戦。 |
| 前回の対戦同様、フルラウンドの死闘となり2-0の判定勝ち。 |
| 23戦目で無敗(22勝1分)のまま世界王者となった233頁上段。 |
| 1999年2月13日の初防衛戦ではソウル・デュラン(メキシコ)と対戦。 |
| 2回にダウンを奪われる苦戦を強いられるも、デュランもホールディングとローブローで2度の減点を取られ、12回判定で引き分け。 |
| 辛くも防衛に成功した233頁下段。 |
| 1999年6月27日、2度目の防衛戦。 |
| ランキング1位の指名挑戦者ラクバ・シン(モンゴル)と対戦し、5回TKO負け。 |
| 世界王座陥落と同時にプロ初黒星を喫した234頁上段。 |
| 7月に引退を表明し、その後は鶴太郎マネージャーの紹介で芸能界入り。 |
| テレビでのタレント活動を開始。 |
| 2000年、引退を撤回。 |
| メキシコ系アメリカ人のルディ・エルナンデスを新トレーナーに迎え入れ、プロボクサーとして再始動。 |
| 2000年6月11日、復帰初戦でいきなりの世界再挑戦。 |
| WBA世界ライト級王者ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)に挑み、5度のダウンを奪った末の8回KO勝ち。 |
| 日本人4人目の世界2階級制覇を達成し247頁上段、ガッツ石松以来、日本人2人目の世界ライト級王者となった。 |
| 10月11日の初防衛戦では坂本博之と対戦し、10回KO勝ち247頁下段。 |
| 同年12月草加市スポーツ健康都市記念体育館での草加有沢興行でスパーリング(コウジ有沢の双子の兄・カズ有沢の引退セレモニー)。 |
| 続く2001年2月17日の2度目の防衛戦では日本ライト級王座を22度防衛した米国人選手リック吉村と対戦し、三者三様の引き分けで2度目の防衛に成功した248頁上段。 |
| 2001年7月1日、3度目の防衛戦。 |
| 元王者でランキング1位の指名挑戦者ジュリアン・ロルシー(フランス)と対戦し、12回判定負け。 |
| 王座から陥落し248頁下段、この試合を最後に2002年1月、正式に引退した。 |