| 天正10年(1582)6月2日、織田信長が死去(本能寺の変)。 |
| 天正11年(1583)正月、佐竹義重・岩城常隆・田村清顕より「金山・丸森の伊達返還を条件に伊達と相馬の和平を取り計らいたい」として使者が来るがこれを承諾せず、同年2月6日、伊達輝宗・政宗父子と伊具郡丸森城・金山城で戦った。 |
| しかし、その後、田村清顕自身が宇多郡中村城下の長徳寺に赴いてきて「金山・丸森はもともと伊達領であるので、これを返して和睦されよ。 |
| 」と種々の条件を示したので遂にこれに応じて、同年5月にまず丸森を返還し、翌年金山を返還して和睦した。 |
| 和議の成立の時期は天正11年(1583)5月とする『奥相茶話記』(相馬史料)の記述と天正12年(1584)年5月とする『性山公治家記録』(伊達史料)の記述で異なっている。 |
| 天正12年(1584)10月6日、蘆名盛隆死去。 |
| 同月、伊達輝宗が隠居し、政宗が家督を継ぐ。 |
| 天正12年(1584)10月14日と推察される桃生郡深谷の長江氏に宛てた義胤の書状は、これまで伊達氏との争いのために自由に通信できず残念に思っていたが、岩城氏の仲介により和睦し、周囲は平穏になったことを伝えている。 |
| 義胤夫人の実家の三分一所氏は長江氏から分出したといわれる。 |
| 『三分一所家資料 戦国時代の相馬平成17年1月22日発行』岡田清一監修。 |
| 天正13年(1585)7月、秀吉が関白となる。 |
| 同年9月、義胤は三春訪問の途次、伊達政宗と小浜城・宮森城付近の陣所で初対面を果たしている。 |
| 10月8日、伊達輝宗が二本松城主畠山義継に捕らえられて死去すると、14日には政宗の二本松攻めの援軍として田村清顕と共に三春城より出陣した。 |
| しかし、先年、天正12年(1584)の蘆名盛隆の死去は南陸奥の情勢に大きな変化をもたらしていた。 |
| 蘆名盛隆は蘆名家と二階堂家の領地を脅かす田村家と戦う姿勢を持ってはいたが、政略結婚上、伊達家と戦うことはなかったのである。 |
| 佐竹義重が二本松城救援のために北上してくると、義胤は他の南奥諸大名と共に佐竹方に付いた岡田清一は自身が監修した『戦国時代の相馬平成17年1月22日発行』で佐藤進一の著書『花押を読む』を引用し、発給年月日が天正12年(1584)8月1日とされる相馬義胤の書状の花押がそれまで使用していた型から改められ、佐竹義重の花押に似たものを使用していること、そして義胤の「義」の一字が佐竹義重よりの「受用」であることを挙げて佐竹義重と相馬義胤の以前からの関係性を示唆している。 |
| 11月17日の人取橋の戦いでは、蘆名・佐竹連合軍に加わり、約300騎六貫文一騎の計算では1800人以上。 |
| 『岩城市史』では相馬勢千余人とある。 |
| で佐竹勢と二階堂勢との間に本陣を構え、東義久、岩城常隆らが伊達勢の高倉城を貫くと、佐竹義重・白川不説斎の本陣勢と共に伊達政宗の本陣へ攻め上った。 |
| ただし、この時の相馬勢の動きは相馬史料には殆ど記録がないのが実情である。 |
| 天正14年(1586)、二本松城を攻めあぐねていた伊達方は、老臣伊達実元を中心に政宗を説き伏せ、義胤に和議の斡旋を依頼。 |
| その結果、7月16日に二本松城は開城され、畠山国王丸・新城盛継らが会津へと退去した。 |
| 10月9日に田村清顕が死去すると、田村家中では相馬・伊達のどちらにつくべきかで争いが生じ、これに伴って義胤と政宗の関係は決裂していく。 |
| 11月、蘆名盛隆の実子・亀王丸が死去。 |
| 翌、天正15年(1587)3月、蘆名家臣金上盛備の斡旋で佐竹義重の実子・義広が白河結城家から出て蘆名家へ養子に迎えられた。 |
| この頃になると、佐竹は惣無事令によって、伊達と蘆名の和睦斡旋を命じられたために、自ら兵を公然と動かすことが出来なくなってしまい、かえって政宗の軍事行動が容易になり、その勢力伸長を抑えられなくなっていた。 |
| 同年、相馬氏も豊臣政権より奥羽惣無事を命ぜられている『天正15(1587)年極月3日富田左近将監書状。 |
| 相馬家文書(原町市史)』。 |
| 天正16年(1588)2月、大崎家中の内紛に介入した政宗が敗北すると(大崎合戦)、これを好機とみた蘆名義広は仙道を北上し、伊達領に攻め入った(郡山合戦)。 |
| 4月18日、蘆名勢が伊達成実、大内定綱らによって退けられると、4月20日、政宗は相馬方の田村家臣石川弾正を討つべく安達郡築館(二本松市木幡)に出陣。 |
| 義胤は月山城(二本松市戸沢)に入り弾正を支援した。 |
| 5月11日、義胤は田村清顕継室(義胤叔母)の依頼に応じて、田村家中の伊達派を押さえ込もうと三春城入城を図ったが、伊達派の田村月斎らに銃撃されて江井胤治ら側近多数が討死し、命からがら小高城へ帰陣した。 |
| 6月、仙道方面での蘆名勢と伊達勢の戦いは膠着状態に入った。 |
| 7月16日、岩城氏の仲介で蘆名・佐竹氏と伊達氏は和睦した。 |
| 結果、8月、田村家当主には伊達方の推す田村宗顕が即いた。 |
| だが、これより後も政宗の野心はとどまることを知らなかった。 |
| 天正17年(1589)5月1日、伊達勢の桜田元親らが飯土居(相馬郡飯舘村)に攻め入る『伊達文書』。 |
| 19日には政宗によって駒ヶ嶺城、20日に新地城(蓑首城)など宇多郡の拠点を奪い取られ、6月5日に蘆名義広が摺上原の戦いで政宗に敗れると蘆名氏は本城黒川城を失い常陸に逃れ、10月には二階堂氏の本城須賀川城が陥落。 |
| 二階堂氏は滅亡した。 |
| 伊達氏は蘆名氏の版図(福島県の会津地方・中通り地方)を併呑し、相馬氏も一気に滅亡の危機に立たされることになる。 |