| 実家は和歌山市内で果物菓子商を営む家庭で、七人兄弟の末として生まれる『嶋清一戦火に散った伝説の左腕』P112。 |
| 和歌山市立吹上尋常小学校(現・吹上小学校)から和歌山高等小学校を経て1938年に海草中(現・向陽高校)に入学。 |
| 嶋清一の3年後輩に当たる。 |
| 2年生の1939年には夏の甲子園大会に三塁手・5番で出場、嶋の伝説的な快投による全国制覇のメンバーとなる。 |
| 嶋の進学を受けて投手に転向当初、真田は転向を渋っていたという(『嶋清一戦火に散った伝説の左腕』P26)。 |
| 明治大学OBの長谷川信義監督の厳しい指導を受けて嶋の後を継ぐエースとなり、1940年の同大会に優勝して2連覇達成に貢献。 |
| 戦前最後の怪腕と呼ばれた。 |
| 3連覇を目指していた1941年に夏の甲子園大会が文部省の指示で中止となる。 |
| 秋の明治神宮中等野球大会では海草中の3連覇をもたらした。 |
| 1942年、文部省主催の全国中等学校野球大会が開催されるが、この大会では出場規定に「満19歳未満」という年齢制限が追加されたため、真田は出場することができなかった。 |
| 秋の明治神宮中等野球大会では4連覇を達成。 |
| 卒業後、1943年に朝日に入団。 |
| これは中学時代の活躍に注目した朝日のオーナー田村駒治郎の肝いりによるものだったオーナーの田村は入団時から真田に目をかけ、他の選手が田村邸の敷地にある合宿所住まいだった中で自邸の離れに住まわせるほどだった。 |
| 後年の小鶴誠らとの不和には、生え抜きである真田といわゆる赤嶺一派に属し大映スターズから移籍した小鶴らの確執に加え、こうした差別待遇も背景があったと言われている。 |
| 同時に日本大学大阪専門学校(現・近畿大学)にも学籍を置いた。 |
| しかし、これにより学徒とみなされ、同年秋の学徒出陣により海軍に入隊する。 |
| このため、戦前のプロでの実績は1943年のシーズンのみだった。 |
| 海軍では航空隊を志願するも不合格となり、1944年6月に横須賀の通信隊に配属される。 |
| ここで嶋と再会した『嶋清一戦火に散った伝説の左腕』P224。 |
| 嶋と真田は9月に揃って和歌山・由良の紀伊防備隊に転属したが、2ヶ月足らずで真田は特殊潜航艇の要員として石川県に再び転属し、終戦を迎えた『嶋清一戦火に散った伝説の左腕』P228、230。 |
| 1946年に田村が新たに創設したパシフィックでプロ球界に復帰。 |
| 速球と「懸河のドロップ」を武器に、1948年9月6日の大阪タイガース(阪神)戦でノーヒットノーランを達成。 |
| 1950年には年間39勝と最多勝を獲得ちなみにこの年の真田の39勝とチーム全体での98勝は、現在でもセ・リーグ記録となっている。 |
| し、リーグ優勝に大きく貢献した。 |
| 日本シリーズでは第3戦と5戦に先発。 |
| 3戦は打ち込まれながらサヨナラ勝ち、逆に5戦は味方のエラーで9回に決勝点を奪われる対照的な結果となった。 |
| 日本シリーズ終了後に実施された最高殊勲選手(MVP)投票では小鶴の12票に対し、真田は7票(投票総数41票)で次点にとどまり、獲得はならなかった(これに関する詳細は後述)。 |
| 1951年はそれまでの酷使で肘を痛め、24試合の登板(7勝6敗)にとどまる。 |
| そのオフに大阪タイガースに移籍。 |
| 田村は経営する田村駒の業績悪化で球団にまで手が回らず、移籍は田村の知らないところで決まった。 |
| 1952年5月7日の広島戦で2回目のノーヒットノーラン。 |
| 現役晩年は内野手としても出場した。 |
| 1954年7月25日の中日戦(大阪球場)では、3点をリードされた延長10回裏に代打として起用され、三振に終わったが、3ストライク目がファウルチップで捕手が落球したとして阪神の松木謙治郎監督と藤村富美男が抗議。 |
| ファンがグラウンドになだれ込み一時中断。 |
| その後、この試合は結果として阪神の放棄試合となった。 |
| 1956年オフの藤村排斥事件では排斥派の一人となる。 |
| 12月4日に球団から金田正泰とともに「来季の契約更改をおこなわない」との通告を受ける。 |
| 球団側は12月25日に金田は復帰させたが、真田については「力の衰えから戦力にならないため」という理由で方針を変更せず、真田はそのまま退団した。 |
| 真田自身は後年「(球団との仲介をした外部の人間から)金田も帰るからお前も帰ってこいといわれた。 |
| しかし、そんな気になれんかった」と述懐している『真虎伝』P234。 |
| 真田は後日藤村が「野球界の一匹オオカミは真田だけだった」とコメントしているのを読んだという。 |
| プロ通算178勝は、甲子園大会とプロの両方で(現役選手として)優勝を経験した投手としては、2009年シーズン終了時点で最多勝記録である。 |
| この記録には桑田真澄があと5勝まで迫っていたが、2007年に米球界に移籍(そのまま未勝利で引退)した。 |