| 若手時代は1950年代生まれの棋士の代表格として期待され、当時の名人だった中原誠に対する対戦成績の良さから「将来の名人候補」との評判も勝ち得た。 |
| 奨励会時代から俊英として知られ、山口瞳の「血涙十番勝負」にも「真部一男三段。 |
| 毎年惜しくも昇段を逃しているが、奨励会実力ナンバーワンは衆目の見る所。 |
| それどころか、順調に進めばA級間違い無しの俊秀である」という一節がある。 |
| 四段昇段後は、順位戦C級2組で1期目と2期目が7勝3敗。 |
| 3期目となった1975年度に10戦全勝でC級1組昇級。 |
| 翌年も9勝1敗の好成績でB級2組に昇級する。 |
| 1979年度の順位戦でB級1組に昇級。 |
| その後8年経って1987年度に9勝3敗の成績を収め、晴れてA級八段となる。 |
| B級1組昇級のときに28歳であった棋界のプリンスは、すでに36歳となっていた。 |
| A級には通算2期在籍。 |
| 若手時代は、当時脂の乗りきっていた米長邦雄を得意とし、1982年度の第16回早指し将棋選手権・決勝三番勝負では米長をストレートで下して優勝するなど、80年代中頃までは米長相手に大きく勝ち越していた。 |
| この理由について本人は「奨励会時代から米長から目をかけて貰い、『ぶつかり稽古』と称した練習将棋を多い時は月に百局以上も指すなど、若い頃から米長将棋を吸収できたため」という旨を著書で述べている。 |
| しかし、棋戦優勝は、この1回に終わる。 |
| 森安秀光ら関西勢の棋士を苦手とするなど、大一番でなかなか勝てず、ついにタイトル戦出場や2度目の優勝は叶わなかった。 |
| -挑戦者決定戦での敗退3回は、タイトル戦未出場の棋士では小林健二の5回に次いで歴代2位である。 |
| ;真部の大一番。 |
| 第1期(1975年度)棋王戦・敗者復活決勝で大内延介に敗れる。 |
| 第10回(1977年度前期)早指し将棋選手権・準決勝で大山康晴を破るが、決勝で加藤一二三に敗れ、準優勝。 |
| 第8回(1977年度)新人王戦・決勝三番勝負で森安(秀)に敗れ、準優勝。 |
| 第28回(1978年度)NHK杯戦・決勝で米長に敗れ、準優勝。 |
| 第40期(1982年度前期)棋聖戦で大山、森安(秀)らに勝ち挑戦者決定戦に進むが、森雞二に敗れタイトル挑戦はならず。 |
| 第30回(1982年度)王座戦(タイトル戦昇格の前年)準決勝で中原誠を破るが、挑戦者決定戦で内藤國雄に敗れる。 |
| 第16回(1982年度)早指し将棋選手権・決勝三番勝負で米長を2-0で破り優勝。 |
| 第9期(1983年度)棋王戦・準決勝で中原を破るが、挑戦者決定戦で森安(秀)に敗れ、タイトル挑戦はならず。 |
| 第32期(1984年度)王座戦・挑戦者決定戦で森安(秀)に敗れ、タイトル挑戦はならず。 |
| 第10期(1984年度)棋王戦・準決勝で森安(秀)を破るが、挑戦者決定戦で桐山清澄に敗れ、タイトル挑戦はならず。 |
| 第12期(1986年度)棋王戦・挑戦者決定戦で高橋道雄に敗れ、タイトル挑戦はならず。 |
| 第28期(1987年度)王位戦リーグで谷川浩司らに勝ち、谷川と4勝1敗の1位で並ぶが、プレーオフで谷川に敗れて挑戦者決定戦進出はならず。 |
| 第46期(1987年度)B級1組順位戦・最終局で勝浦修に勝ち、9勝3敗・2位の成績でA級初昇級。 |
| 第48期(1989年度)B級1組順位戦・最終局を8勝3敗・自力昇級の状態で迎えたが、福崎文吾に負けて4敗目を喫する。 |
| しかし、同星でリーグ表順位が下の森(雞)も敗れたため、2位の成績でA級に復帰。 |
| 森(雞)を破る援護射撃をしたのは、勝っても負けてもB級2組への降級と次期B級2組リーグ表での順位(2位)が決まっていた森安(秀)であった。 |
| 2007年11月1日から2009年度末までの1年4カ月間、病気療養のため全棋戦を休場することが日本将棋連盟から公式発表されたが、それから1ヶ月も経たない2007年11月24日、転移性肝腫瘍のため死去。 |
| 公式戦通算成績は598勝614敗。 |
| 600勝(将棋栄誉賞)を目前にしての早世だった。 |
| 同日付で日本将棋連盟より九段が追贈された。 |