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石勒
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皇帝
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333年
五胡十六国時代
光初
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プロフィール
石勒とは
出自
八王の乱
漢・前趙の武将として
後趙建国
人物・逸話
石勒十八騎
后妃
子
石勒(せきろく)は、五胡十六国時代の後趙の創建者。
出自
上党郡武郷(現山西省楡社の西北)の人。
羯族の部落小帥・周曷朱の子。
父の代理を務め、部人から信頼されていた。
当時の羯族は経済的に困窮し、太安年間には并州の飢饉戦乱に遭って部落離散していた。
石勒も流浪の旅に出ざるを得ず、その途中で晋の東嬴公司
馬騰
に捕らえられ、山東の師懽に売られて奴隷とされた。
師懽に認められ、自由の身とされた後、汲桑の馬牧場で働いた。
八王の乱
八王の乱が起こると、その混乱に乗じて群盗となった。
永興2年(305年)、汲桑とともに成都王司馬穎配下の公師藩に合流し、この時から石勒と名乗る。
光熙元年(306年)、公師藩が苟晞に討たれると汲桑とともに逃亡する。
司馬穎が東海王
司馬越
・司
馬騰
らによって処刑されると、汲桑は大将軍を自称して司馬穎の復仇を名目に反乱を起こし、石勒は彼のもとで掃虜将軍・忠明亭侯となる。
永嘉元年(307年)、鄴に進軍して司
馬騰
を敗死させるが、苟晞に大敗し再び逃亡した。
石勒は上党の胡人の部族長を伴い、匈奴の
劉淵
が興した漢(前趙)に帰順すると、輔漢将軍・平晋王とされた。
劉淵
の招致に応じなかった烏丸を帰順させると、督山東征討諸軍事を加えられた。
漢・前趙の武将として
永鳳元年(308年)、
劉聡
の先鋒となって壺関を陥落させた。
劉淵
が皇帝を名乗ると平東大将軍となる。
この頃に漢人の張賓が陣営に参加した。
河瑞元年(309年)、
劉淵
から安東大将軍とされて開府した。
鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、張賓を謀主とし、十八騎の多くが軍の指揮官となった。
光興元年(310年)に
劉淵
が死に、
劉聡
が即位すると并州刺史となり、汲郡公に封じられた。
嘉平
元年(311年)、東海王・
司馬越
の葬列を襲い、
司馬越
の子で鎮軍将軍・司馬毗ら西晋軍の主力を壊滅させ、孔萇の進言に従い、太尉
王衍
など軍高官や王侯100人以上を含む10万人近くを殺害した。
同年、大将軍・苟晞を殺害し、さらに
王弥
を殺してその部下を併せたが、江南地方への侵攻は失敗した。
江南の攻略中には、劉琨(王編に昆)が生き別れの母と
石虎
を送り届けて晋への帰順を促したが、石勒は丁重に応対したものの帰順は拒否した。
嘉平
2年(312年)、襄国に拠点を移す。
嘉平
4年(314年)、幽州の
王浚
を殺すが、段匹磾が薊に入り以降は対立した。
劉聡
から驃騎大将軍・東単于とされた。
麟嘉元年(316年)、拓跋部の協力を受けた劉琨を撃破した。
晋の并州を降した。
後趙建国
光初元年318年、靳準の乱で
劉粲
が殺され、前趙の
劉曜
が即位すると、大司馬・大将軍に上り、趙公になった。
光初2年(319年)、靳準の乱を平定後に、
劉曜
と対立するようになった。
孔萇が幽州を平定した。
11月、24郡・戸数29万で趙王を自称し、後趙を建国して、即位の年を趙
王元
年とした、張賓を大執法として朝政を総覧させ、
石虎
を単于元輔とした。
趙王2年(320年)、祖逖によって、黄河以南は
東晋
の支配下に入った、石勒は祖逖と融和に努めて、黄河以南を攻撃せず祖逖とは休戦状態になった。
趙王3年(321年)、
石虎
が段匹磾と段
文鴦
を降服させた。
石勒は法律の施行・九品の決定・度量衡の統一・戸籍の作成・農業の奨励を行い、混乱した河北の秩序を回復させていった。
趙王4年(322年)、
石弘
を世子にした。
黄河以南へ攻撃を再開した。
張賓が死去し、代えて程遐に朝政を総覧させた。
趙王5年(323年)、曹嶷を滅ぼし青州を平定した。
趙王7年(325年)、
東晋
と前趙の勢力を駆逐し洛陽を領有した。
淮河北岸まで支配下に入れた。
趙王8年(326年)、
石虎
に代えて
石弘
に鄴をまかせ、王陽に補佐させた。
趙王9年(328年)、師懽が黒兎を献上し、瑞兆として太和と建元した。
7月、淮河を超え寿春を陥落させた。
8月、
劉曜
の率いる前趙に洛陽を占領されたが、12月に奪回して
劉曜
を捕虜にした。
太和2年(329年)、
劉曜
を殺し、さらに長安を攻略して前趙を滅ぼす。
張駿
が使者を送って称藩し、華北の大半を平定した。
建平元年330年、天王と称し、後趙を晋の金徳に続く水徳の王朝とした。
8月、帝位に即き、建平と改元した。
以降は江南の
東晋
と対峙した。
建平4年(333年)7月に死去した。
死後に後継争いが起き、
石弘
が殺されて従子の
石虎
が帝位に即く。
人物・逸話
石勒自らは字が読めなかったが、他人に
書物
を読ませ聞くのが好きであり、漢人士大夫を登用して、律令・官制を整えた。
『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。
仏教を崇拝し、
仏図澄
を信奉したことでも知られる。
また、過去の群雄について、「高皇(
劉邦
)に会ったら、(その部下となり)
韓信
や
彭越
と先陣を競うだろう。
光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。
(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳(曹操)や
司馬仲達
(
司馬懿
)父子のように、孤児(
献帝
)や
寡婦
(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と評した。
石勒十八騎
石勒が群盗をしていた頃から付き従ってきた者たち。
石勒はこれを十八騎と号した。
石勒が群盗になった際に最初に付き従ったのが、王陽、夔安、支雄、冀保、呉予、劉膺、桃豹、逯明という8人であり、後に郭敖、劉徴、劉宝、張曀僕、呼延莫、郭黒略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六の18人が合流して十八騎となった。
石勒十八騎は、石勒の覇業を支えて、後趙の華北制覇に大いに貢献した。
后妃
程氏(程遐の妹)。
子
石興(最初の世子、早世)。
石斌(
石虎
の養子となる)。
石堪(旧姓は田、石勒の養子となる)。
石勒 - Wikipedia
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