| 1956年3月28日、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の慎太郎刈りのモデルを引き受けたのが彼にとって日活での初仕事であった近代映画 近代映画社 1970年2月号 146頁。 |
| 『狂った果実』が映画化されることとなり、シナリオを書き上げるため有楽町の日活ホテルに缶詰状態だった兄・慎太郎は左手で書くのは早いが読み難く、それが判る裕次郎は「俺が清書しなきゃあ誰も読めない!」と付きっ切りで清書しながらも自身が演ずる役の台詞を少なくするよう兄・慎太郎に催促するといった具合であった。 |
| だが兄弟で一つの仕事を成し終えるその姿に世間は太陽族の美しい兄弟愛と褒め称えた。 |
| ロケ先などで女学生に囲まれサインをねだられても断ることが多かった、理由は「真っ白な紙に名前だけ書いて渡すなんて試験の答案のようなもの」であることから以上は近代映画 近代映画社 1970年3月号 141-142頁。 |
| 兄の影響により、ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったともいわれる。 |
| 父が亡くなったショックから自暴自棄になり、家から金目の物を持ち出しては換金し、その金で銀座などへ繰り出す遊行三昧の日々を送っていた、そんな頃に水の江瀧子より「太陽の季節」の映画化を促されていた兄である石原慎太郎は弟を心配するあまり、「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…弟を出してくれるんなら」という条件を提示すると水の江はその条件を呑み、脇役ではあったが裕次郎は同作品で俳優デビュー。 |
| 主演格に匹敵するダイナミックな存在感で注目されることとなる。 |
| 裕次郎本人は「太陽の季節」への出演は至って遊び感覚で、迎えの車に乗り初めて日活撮影所へ降り立った時は素肌にヨットパーカーを羽織り、海水パンツにゴム草履履きといったそのいでたちに、その場に居合わせた宍戸錠と小林旭は「何だ!ありゃあ〜!?」と仰天したという(TVでの小林旭談)。 |
| ハワイで過ごす芸能人の先駆けとなった人物でもある。 |
| 力道山と三橋美智也と彼の3人しか所有していなかったと言われるメルセデス・ベンツ300SL〈W198〉ガルウイングクーペ。 |
| 車体はシルバー)を所有していた他、ロールスロイス(シルバースピリット)やキャディラックなど複数の高級車を所有するカーマニアであった。 |
| 俳優業について、しばしば「男子一生の仕事にあらず」と語っていた。 |
| しかし彼には「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな。 |
| 」というポリシーがある。 |
| 困っていることがあると自ら率先して動くタイプであった。 |
| そのためもあって広い交友関係を楽しんだ人物で、(スポーツ界や政財界等を問わず)誰かに会った時は必ず、上下関係分け隔てなく挨拶のときは立ち上がり、握手をするという礼儀正しさでもよく知られていた。 |
| 食通で、懐石料理・カレーライス・ビフテキ、葉山コロッケなどを好み、和洋中問わず好物は多かった。 |
| また、料理好きでもあり、別荘やヨットハーバーでバーベキューや手弁当を楽しんだ。 |
| 嫌いな物は鶏肉だったという。 |
| 大病後は夫人の食事管理の下玄米のパンと野菜サラダのみの生活を送っていたという。 |
| また晩年には毎日30錠の薬を規則正しく服用し、食事制限(特に塩分制限6g、小さじ1杯)も実行したとも言われる。 |
| 性格として今で言う体育会系の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、自分の車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという。 |
| また人前で喰べたりすることも嫌っていた。 |
| 石原プロの炊き出しは彼が考案したものである。 |
| チェーンスモーカーであり、また大病を患う前は、休暇中には朝食にビールを飲むほど(撮影所には、「ビールは酒ではない、水である」という名分で冷蔵庫が置かれていた)の酒豪であった。 |
| (事実赤坂東急ホテルのバーカウンター端の席で飲んで、その後飲食街に繰り出す事が多かった)大動脈瘤手術後は身内のパーティではビールをコップ1杯程度にしていたといわれ、喫煙も控えていたが、甥の良純によるとハワイの別荘で夫人の目を盗んでの「お相伴」に付き合わされたという。 |
| 台詞覚えが悪いことで知られ、台本を開いた状態で机の中に置いて演技を行ったこともあるという。 |
| その代わり、NGを出すことはほとんどなかったともいわれる。 |
| 『紅白歌合戦』には「歌は素人」という理由で毎年辞退していたといわれている。 |
| 1965年には国粋会のピストル密輸事件に絡み家宅捜索を受け、後に銃刀法違反で有罪となる。 |
| 石原プロモーション所属の俳優達からはもちろん、『西部警察』で共演した三浦友和及び柴俊夫らからも『石原社長』と呼ばれていた。 |
| とくに石原プロが倒産の危機のときには家のない社員全員に家を建ててプレゼントとしたことがある。 |
| 甥の(兄・慎太郎の三男)石原宏高を養子にしたがっていたとも伝えられる。 |
| 宝酒造が製造する日本酒「松竹梅」の文字は彼の手によるものである。 |