| 313年、桃豹に代わり魏郡太守となって、鄴を任された。 |
| 319年、石勒が趙王を称すると単于元輔・都督禁衛諸軍事となり、321年に幽州の段部を打ち破った。 |
| その後車騎将軍になり、離石の鮮卑を討った。 |
| 323年、青州の曹嶷を滅ぼした。 |
| 325年、洛陽から前趙の勢力を駆逐した。 |
| 326年、石勒の太子石弘が鄴を任されると禁兵と車騎将軍の全てが石弘の配下に移され、王陽が非漢族の統率者にされた。 |
| 328年8月、前趙の皇帝劉曜と戦い大敗したが、12月に石勒と共に洛陽を攻撃、翌329年9月に劉曜の太子劉煕を殺害して前趙を滅ぼし、伝国璽を石勒に送った。 |
| 330年、太尉・守尚書令・中山王とされ文官の首位に立ち、子の石邃が冀州刺史・斉公となった。 |
| 332年、石弘が政務を見るようになると権力を失ったが、石勒が病床に就くと石勒の代理のようになった。 |
| 石勒は石虎に「周公や霍光がどうだったか、よく考えろ」と遺言した。 |
| 333年に石勒が没すると太子石弘に帝位は継承されたが、石虎は魏王・丞相となって権力を掌握し、石邃が魏太子となった。 |
| 翌334年に新帝を廃し、自ら居摂趙天王となり、翌年には襄国から鄴に遷都した。 |
| 337年に大趙天王となり、石邃が天王皇太子となった。 |
| しかし、石邃は石虎の理不尽な対応から「父を殺したい」と口走り政務を見なくなり、石虎は石邃の側近を殺し、石邃を幽閉した。 |
| 石邃は謝罪せず妻の張氏と共に殺され、代わりに子の石宣が天王皇太子となった。 |
| 338年、幽州で前燕を攻めて逆に大敗したが、翌339年に荊州と揚州で東晋に勝利した。 |
| 341年、子の石韜を太尉とし、石宣と共に政務を見させた。 |
| 石虎の統治した時代は、石虎自身の暴虐非道な性格を反映して、乱世であるこの時代の中でも最も非道が罷り通る時代と評されている。 |
| 中でも、次々に大宮殿を造営したり、統治下の漢民族から馬、美女、物資などありとあらゆるものを徴発し続けた結果、漢人の10人に7人が破産し、妻を取られて自殺する者も後を絶たなかったという。 |
| しかし凶暴な性格ではあるが、仏教に対しては寛容であり、仏図澄を国師待遇していた。 |
| 348年、石虎が特に寵愛していた石韜を、石宣が地位を奪われることを恐れて殺害した。 |
| 石宣が石虎も殺そうとしていた事が判明すると、石虎は怒り狂って石宣を惨殺し、他の宗族や臣下まで多数虐殺した。 |
| この事件後に発病、新たに太子を立てる事になり、燕王石斌(石勒の子)、彭城公石遵(石邃の同母弟)、斉公石世(劉曜の娘の子)のうちから石世が選ばれ、劉氏が皇后に立てられた。 |
| 翌349年に天王位の称号を廃して皇帝の位についたが、病状が悪化すると、石遵を大将軍、石斌を丞相にして石世を補佐させようとした。 |
| 劉皇后は石斌が石世の害になると考え、石虎が危篤になると石斌を殺した。 |
| 石虎の没後、石世が跡を継いだ。 |
| しかし、石世は兄弟の石遵に殺され、続いて石遵も石鑑に殺害され、石鑑も短期間で殺害された。 |
| 一連の内乱で石虎の養孫だった冉閔が台頭、石虎の死から僅か2年で後趙を滅ぼし冉魏を打ち立てることになる。 |