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プロフィール
- 神武天皇とは
- 生涯
- 東征の開始
- 長髄彦との戦いと苦難
- 八咫烏の道案内と勝利
- 即位
- 系譜
- 歴史学界における神武天皇
- 即位年月日
- 紀元前660年とされた経緯
- 諡号・追号・異名
- 皇居・橿原神宮
- 陵墓・霊廟
- 関連項目
- 関連サイト
神武天皇(じんむてんのう、JimmuTennoh,ShinmuTennoh庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?)~神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本 神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)。『古事記』では 神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ ...
生涯
| 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡である。 |
| 内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。 |
| 『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。 |
| 『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。 |
東征の開始
| 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。 |
| 生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。 |
| 15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。 |
| 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲179万2470余年。 |
| 偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となるが経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。 |
| 東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。 |
| そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。 |
| よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。 |
| 諸皇子はみなこれに賛成した。 |
長髄彦との戦いと苦難
| 太歳甲寅(日本書紀#太歳(大歳)記事参照)年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 |
| 筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。 |
| 乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。 |
| 船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦(うづひこ)(宇豆毘古命)後の椎根津彦を水先案内とした。 |
| 戊午年の2月、浪速国に至る。 |
| 3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。 |
| この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。 |
| 戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。 |
| 磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。 |
| 草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。 |
| この地を盾津と名付けた。 |
| 5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。 |
| 名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。 |
| 陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。 |
| 磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。 |
八咫烏の道案内と勝利
| 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。 |
| 剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。 |
| だが、山路険絶にして苦難を極めた。 |
| そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。 |
| 八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。 |
| 8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼んだ。 |
| 兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。 |
| 磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。 |
| 磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。 |
| 9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。 |
| 磐余彦は深く憎んだ。 |
| 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祇を祀り、勝利を祈願した。 |
| 10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。 |
| 11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。 |
| 12月、長髄彦と遂に決戦となった。 |
| 連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。 |
| そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。 |
| すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。 |
| 饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。 |
| 翌己未年2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。 |
| また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。 |
| これに因んで、この地を葛城と称した。 |
| 3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。 |
| 庚申年、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。 |
即位
| 辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。 |
| 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。 |
| 神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。 |
| 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。 |
| 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。 |
系譜
| 父は彦波瀲武草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。 |
| イザナギ―天照大神(皇祖神)―アメノオシホミミ―ニニギ―ホオリ―彦波瀲武草葺不合命―神武天皇、と連なるとされる。 |
| 『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。 |
| 兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。 |
| 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)-大物主の女。 |
| 神八井耳命(かむやいみみのみこと)-多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造等の祖。 |
歴史学界における神武天皇
| 神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。 |
| 明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだという原則が広く承認されるようになった。 |
| 津田は記紀の成立過程に関して初めて本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室が日本を支配するいわれを説明するために述作された日本神話の一部として理解すべきであると断じた。 |
| 戦前彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって皇室のタブーが解かれると、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった三品彰英は神武東征説話の骨子と高句麗の開国説話が類似しているとする。 |
| したがって、神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものとする意見が出ており、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、記紀編纂時期の天武天皇などを念頭に、弥生時代末期から古墳時代にかけての、種々の出来事を基にして創作したとする「モデル論」も盛んである。 |
| 神武東征物語は、邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。 |
| また古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。 |
即位年月日
| 神武天皇の即位年月日は、『日本書紀』の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。 |
紀元前660年とされた経緯
| 『日本書紀』は月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。 |
| 太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(1873年)1月1日から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)特定の日付に固定する必要が生まれた。 |
| 文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。 |
| 神武天皇の即位年は、『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算干支年は、後漢の建武26年(50年)に三統暦の超辰法をやめ(元和2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返している。 |
| すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。 |
諡号・追号・異名
| 「神武天皇」は、天平宝字6年(762年)~天平宝字8年(764年)に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。 |
| 奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。 |
皇居・橿原神宮
| 都は畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)である。 |
| 幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。 |
| 京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。 |
| なお、昭和13年(1938年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。 |
| このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある「生命の教育」平成8年5月号、「科学的根拠のある神武天皇伝説」『生きる知恵第9号』季刊・東神会出版室、出雲井晶『教科書が教えない神武天皇』産経新聞ニュースサービス1999年、樋口清之「日本古典の信憑性-神武天皇紀と考古学」『現代神道研究集成9巻』神社新報社1998年。 |
陵墓・霊廟
| 『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。 |
| 『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。 |
| 毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。 |
| また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 |
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1863年
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ミサンザイに決まった |
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1873年
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祭日(紀元節)と定められた |
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