| 神谷美恵子は1914年(大正3年)に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として岡山市に生まれた。 |
| 兄弟には兄の陽一の他、後に一男二女が生まれている。 |
| 父の多門はその年の4月に長崎県の理事官へと転任し、一家は長崎へと転居した。 |
| 多門は内務省におけるエリート官僚として、外国との折衝を始めとした役職を歴任したため、一家は頻繁に転居している。 |
| 両親が外国へ出張している際には、兄弟は離ればなれになって親類の家に預けられることもあった。 |
| 1920年(大正9年)に多門は東京市助役となり、一家は大久保町などに居住した。 |
| 美恵子は翌1921年(大正10年)に聖心女子学院小学部へと編入したが、カトリックにより運営され貴族的な雰囲気を有していたこの学校での生活には違和感を覚えている。 |
| 1923年(大正12年)になると多門はジュネーヴに新設された国際労働機関の日本政府代表に任命され、一家はスイスへと向かった。 |
| 美恵子は市内に存在するジャン=ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入学した。 |
| 1年生から6年生までの20人あまりの生徒が一つの教室に集められ、各自の能力に応じた指導を受けていたこの学校で、美恵子は「急に明るくなり、成長した」。 |
| この頃両親は二人の結婚式の媒酌人であり当時国際連盟事務次長を務めていた新渡戸稲造と親密に交際しており、彼を尊敬していた両親と同様に美恵子も新渡戸から大きな影響を受けた。 |
| しかし、共に貧しい境遇から努力によって身を立ててきた両親の間は不和とは言わないまでも争いが耐えなかったようで、美恵子は長女として幼い頃から家庭に気を配り、父の社交に加わっていたが、後にこのことは大きな負担であったと記している。 |
| 小学校卒業後はジュネーヴ・インターナショナル・スクールへと進学した。 |
| スイス生活が長引く中で、兄妹はフランス語を日常会話においても用いるようになった。 |
| 後の時代になっても「読み書きと思考は今でもフランス語が一番楽である」と語っている。 |
| 1926年(大正15年)に一家は帰国し、父は東京市制調査会専務理事として勤務した。 |
| 美恵子は一旦自由学園に編入学したが、そこでの教育が身に合わず数ヶ月の内に成城高等女学校へと転学している。 |
| 学校の他にアテネ・フランセにおいて語学を、無教会主義に属する伝道師であった叔父の金澤常雄の主催する研究会では聖書を学んでいた。 |
| 宗教に関しては後にクエーカーへ、さらに晩年には仏教へも興味を示したが、キリスト教一般に対する関心は生涯かわることは無かった。 |
| 1932年(昭和7年)に成城女学校を卒業すると、津田英学塾本科へと進学し文学を専攻した。 |
| 1934年(昭和9年)に太田雄三『喪失からの出発』p.79によると、これは著作集別巻年譜に示されている1933年ではなく、1934年春のことである。 |
| 太田はこれが同年1月27日の一彦の死から数ヶ月しかたっていないことに注目している。 |
| 美恵子は金澤からオルガンの伴奏役としてハンセン病療養所施設の訪問に同行してくれないかと求められた。 |
| 叔父とともに多磨全生園を訪れた彼女は、患者の病状に強い衝撃を受けた。 |
| 後に彼女は、(ある種の「召命感」的な直感とともに)、この時に自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、と語っている。 |
| 美恵子は医師としてハンセン病患者に奉仕しようと決意し、東京女子医学専門学校の受験勉強を開始した。 |
| 彼女の意志を知った両親や津田英学塾の星野塾長はこれを諌め、1935年(昭和10年)に本科を卒業すると塾長の薦めに従い大学部へと進学した。 |
| 当時の津田の大学部では、数名の生徒に対して西脇順三郎が英語を、玉川直重がラテン語を教えるなど貴重な教育体制がくまれていたが、美恵子はハンセン病治療に寄与したいという思いを捨てきれなかった。 |
| 彼女は当時死病であった結核に感染したため軽井沢へと療養に送られたが、組織的な勉強の重要性に気付いた彼女はその訓練をかねて秋には旧制高校の教授資格である英語科高等教員検定試験に受験しこれに合格している。 |
| 一旦は病状が収まったものの、翌年に再発し再び療養生活へと入った。 |
| 死ぬまでに古典文学を読んでおきたいとベッドの上で独学に励み、イタリア語でダンテを、ドイツ語でヒルティを、さらに古典ギリシャ語で新約聖書を読み進めていった。 |
| その中でもマルクス・アウレリウスの『自省録』(ギリシャ語)は彼女の生涯を通しての座右の書となった。 |
| 結核は医師の薦めで受けた人工気胸術によって完治している。 |