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プロフィール
- 秋山幸二とは
- 経歴
- 西武時代
- ダイエー時代
- 現役引退後
- 人物
- タイトル
- 表彰
- 記録
- 出演番組
- 関連サイト
秋山幸二(あきやまこうじ、1962年4月6日-)は、熊本県八 代郡宮原町(現:氷川町)出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球監督、野球解説者。現役時代は鉄人と呼ばれた。シーズンからは、福岡ソフトバンクホークス監督。
経歴
| 小学3年生時に母の勧めで地元に設立されたばかりの少年野球チームに入る。 |
| 小学生時代からバック転をするなどスポーツ万能であったが野球は不得意な部類だったという。 |
| 中学時代はサードやセンターを守っていた。 |
| 熊本県立八代高等学校に進学後ほどなくして野球部に入部し、監督の「お前は背が高いからピッチャーだ」の一言で投手にコンバートされる。 |
| 3年生時の春の九州大会で準優勝。 |
| 最後の夏の甲子園熊本県予選では、決勝で大津一洋と伊東勤がバッテリーを務めていた熊本工高に4-6で敗れはしたものの、無名の高校を引っ張った大型右腕投手としてスカウトの間では評判となっていた。 |
| ほとんどの球団が投手としての獲得を目指したが、西武と巨人は秋山の打撃能力に注目。 |
| 当初は各球団からのドラフトでの指名方針を断り、スカウトを受けた九州産業大学への進学を決めていたが、秋山自身も投げることより打つことの方が好きだったこともあり、西武監督の根本陸夫の「4年後にはクリーンナップを打たせる」という言葉が秋山とその母親の心を動かし、西武ライオンズにドラフト外で入団した。 |
| 推定年俸は240万円と当時のドラフト外入団高卒選手では平均的待遇だったが、契約金は5,000万円と当時のドラフト1位指名選手の契約金をも超える破格であった。 |
| 高校時代から身体能力は抜群。 |
| 入団当時、根本に「オリンピックの十種競技に出場できる」と言わしめた。 |
西武時代
| 西武入団当時の背番号は71で、入団と同時に三塁手に転向。 |
| 1年目はパ・リーグの優勝が決まった後(西武は前期・後期とも優勝を逃す)の消化試合で初の一軍昇格を果たし、初ヒットを放っている。 |
| 2年目の1982年は背番号が24になり、一軍出場は無かったが、イースタン・リーグの本塁打王(19本)を獲得。 |
| 1982年から1983年にかけて、3度野球留学でアメリカ合衆国に渡り、1Aチームのサンノゼ・ビーズ/1983年5月28日-8月28日)とアリゾナ・アストロズ(1982年9月中旬-10月、1983年9月14日-11月1日)でプレーする。 |
| 走塁や守備、長打力など、多彩な分野において図抜けた能力を見せる秋山にメジャー関係者も驚き、西武に獲得を打診したため、西武はすぐに連れ戻した。 |
| サンノゼでは主に3番を打っており、4番を打っていたのが後のヒューストン・アストロズの4番であり、阪神でもプレーしたグレン・デービスであった。 |
| このようなエピソードや日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「メジャーに一番近い男」と呼ばれていた。 |
| 共にクリーンアップを担っていたチームメイトの清原和博からも「自分は日本専門の選手だけど、秋山さんならメジャーでも通用する」と言われていた。 |
| オレステス・デストラーデも「秋山ならすべてのメジャー球団で主力選手として活躍できる」と語っているベースボールマガジン 2011年9月号 P28。 |
| いわゆる「バック宙ホームイン」は、当時の地味なイメージを払拭するために「何か派手なパフォーマンスを」と考え出されたもの。 |
| 文化放送ライオンズナイターの名物リポーター中川充四郎のアイデアであり、中川が番組内で秋山に約束させた(元々は「サヨナラホームランを打ったらバック宙をする」という約束だった)。 |
| 過去に5度(パリーグ公式戦で2度、日本シリーズで3度)披露した。 |
| 初披露は1986年の日本シリーズ「第8戦」(広島市民球場)の6回に放った同点本塁打のホームイン時で、三塁を回りながら、三塁コーチの近藤昭仁に「やっていいですか?」と許可を得てから行ったが、この時は当時の広島方面に相当顰蹙を食らった。 |
| またこのバック宙の際、最後の両足の着地と同時にその足がホームベースを踏んでいるというつもりであったが、少し手前で着地してしまった為、後ずさりするような形でホームを踏んだ。 |
| その他1987年にサヨナラホームランを打った時は着地点がホームベースを通り越していたため、前かがみで右手でホームにタッチした。 |
| 1990年の対巨人戦、1991年の対広島戦でも披露。 |
| 最後となった対広島戦では、着地後尻もちをつき、以後封印することとなった。 |
| 1991年のシリーズで披露したホームインはアメリカのスポーツ専門ケーブル局であるESPNのスポーツセンターでプレイ・オブ・ザ・デーで紹介されたこともある1991年10月30日午後版スポーツセンター参照。 |
| 森がオーナーの堤義明にトレードの相談をしたところ「選手が選手(チームの看板の一人でありスター選手)なだけに事を慎重に運ぶように」と言われたとの事。 |
ダイエー時代
| 常勝軍団であった西武ライオンズから弱小だった福岡ダイエーホークスに移籍してきた秋山は、移籍当初ダイエーの選手たちに「勝ちたい」という意識が薄いことに愕然としたという。 |
| 当時のダイエーの選手たちは怠惰で、藤本博史らが試合前のロッカーで将棋を指すなど、常勝西武の控え室を知っている秋山にとって、彼らの態度は信じ難いものだったという。 |
| 西武からダイエーに移籍した工藤公康の著書によると、森祇晶時代の西武の控室は他の選手には近寄り難い緊張感があったと言われている。 |
| 秋山の背中を見て小久保裕紀が育ち、さらに後を追うように松中信彦、城島健司、斉藤和巳、井口資仁など後の強豪ホークスを支える選手たちが育ち、現在の若手選手は彼らを手本として練習に励む(NHKプロ野球70周年の特番で水島新司が秋山本人の前で証言)、プロ野球最期の言葉、村瀬秀信著、イースト・プレス、2010年、P214ベースボールマガジン 2007年春季号 伝説の名チーム名鑑復刻版⑫1999福岡ダイエーホークス P99。 |
| 小久保は現在も尊敬する野球人として、王貞治と秋山の名をあげている。 |
| 後年は腰を痛め全盛期の派手なプレーは影を潜めたが、経験則から頭脳的なプレーを見せた。 |
| 40歳になってもその守備力は健在で、敵チームを恐れさせた。 |
| 当時オリックス・ブルーウェーブに在籍していたイチローも「あの歳になっても、単に打つだけの選手ではない。 |
| 秋山さんのようになりたい」と語ったほか、中西とともに西鉄の黄金時代を築いた豊田泰光も1999年の日本シリーズでのファインプレー(前述の三角蹴りキャッチ)を見て「今まで見た秋山のファインプレーの中で一番凄い。 |
| 37歳にして肉体が進化している、恐ろしい野球人」と評した週刊ベースボール内の自身のコラムより。 |
| 背番号1は福岡ダイエーホークスの永久欠番となる予定であったが、柴原洋が1番を希望し、秋山も了承したため永久欠番とはならなかった。 |
| 40歳を過ぎても第一線で現役を張れた理由として、豊富な練習量が挙げられる。 |
| 引退後の検査で腰椎分離症と診断された腰は「普通の人だと歩けない状態(秋山談)」であったが、医師に見せたところ、秋山は腰の周囲の筋肉が人並み外れたものであるためカバーされていると言われたという(週刊ベースボール・石毛宏典との対談で明かした)。 |
| 同郷の松中信彦が秋山の自主トレに同行した2000年春、既に秋山は38歳になろうとしていたが、松中がやっとの思いでこなせるほどの練習メニューを秋山は楽々クリアしていた。 |
| しかし、対談の中で、腰が悪いために「いつガタが来るか分からないので盗塁はもう怖い」と語った。 |
| 腰は現役引退直後に手術しており、解説者時代にダイエーの練習を手伝った際「現役に戻ろうかなぁ」と冗談交じりに話すほど、状態は回復している。 |
| 監督となった後も、チーム練習でティーバッティングでラクラクとスタンドまで飛ばすなど現役選手並の練習メニューをこなすなどしており、選手が「監督が一番最後まで練習してる」とこぼすほどである。 |
現役引退後
| 2003年、2004年はRKB毎日放送・TBSテレビ・TBSラジオ野球解説者、西日本スポーツ野球評論家として活動。 |
| また、文化放送にゲスト解説として出演することもあった。 |
| 2003年11月21日、福岡県築上郡椎田町(現:築上町)の椎田中学校体育館落成式の記念講演に数学者の秋山仁を呼ぶはずだったが、依頼側の手違いで当日に秋山幸二が訪れるという珍事が起こる。 |
| 依頼者側も驚きながらも講演会を中止する訳にもいかず、秋山幸二に事情を話し、断られるのを覚悟で「よければ講演していただけませんか」と要請すると(事情を了解した上で)講演を引き受ける。 |
| 当日の講演内容は『私と野球人生』に急遽変更されるが、ホークスの地元・福岡県に住む生徒にとって中心選手だった秋山幸二の登場はこれ以上ない「嬉しいハプニング」だったと伝えられている。 |
| 後日、京都大学で講演を行った秋山仁は、壇上に上がると「こんにちは、秋山幸二です」と言って聴衆を笑わせている。 |
| 就任2年目の9月26日、チームを7年ぶりの優勝へと導いた。 |
人物
| 現役時代は西武ライオンズと福岡ダイエーホークスで活躍した。 |
| ポジションは三塁手、のち外野手。 |
| 中堅手としての球界屈指の守備範囲と強肩、盗塁技術、そして長打力を併せ持つ走攻守3拍子揃った万能選手であった。 |
| 全国的な知名度と人気があり、から18年間、引退するまでオールスターゲームにファン投票で選ばれ続けた。 |
| この18年連続ファン投票選出による出場は歴代最長記録である(連続ファン投票選出は王貞治、野村克也がともに21年連続を記録しているが、2人とも途中1度の出場辞退がある)。 |
| その得票数は引退が近い年まで毎年セ・パ両リーグ全選手の中でも1・2位を争う多さであった。 |
| 2リーグ分立以降、本塁打王と盗塁王を両方獲得したのは秋山のみである。 |
| (ちなみに通算400本塁打以上のいわゆる「強打者」にあって盗塁王のタイトルを獲得したのは衣笠祥雄(広島)がいるが本塁打王のタイトルは無かった(通算は504本塁打)。 |
| また首位打者タイトルの常連であった張本勲はやはり衣笠と同数の通算504本塁打で、尚且つ通算盗塁数も300を超える俊足の持ち主であるが、本塁打王と盗塁王のタイトル獲得は成らなかった。 |
| 花粉症持ちであり、シーズン開幕当初はスロースターターであった。 |
| 花粉症の癒える5月から爆発することからミスターメイの異名をとった。 |
| 秋山は月間MVPを3回獲得しているが、うち2度は5月である。 |
| 引退後は福岡ソフトバンクホークス二軍監督を経て、2007年は総合コーチ、2008年はチーフコーチを歴任。 |
| 前任の王貞治を後継し、2008年10月8日に同監督に就任した。 |
| 日本プロ野球名球会会員でもある。 |
| 兄がいたが、秋山の生まれる1年前に日射病のため、7歳で夭折している。 |
| そのため両親は秋山が生まれた時に「この子には兄の分まで2倍幸せになってほしい」と願い、「幸二」と名付けたという。 |
| 現夫人との間に長女と長男が生まれたが、長男を病気で亡くしている。 |
| 長女はゴルフ選手の秋山真凛。 |
| フリーアナウンサーの片平夏貴(東国原英夫の元妻)は義妹(夫人の実妹)にあたる。 |
タイトル
| 本塁打王:1回(1987年)。 |
| 盗塁王:1回(1990年)※本塁打王と盗塁王両方の獲得経験があるのは、他に金山次郎のみ。 |
| 最多勝利打点:2回(1985年、1987年)。 |
表彰
| ベストナイン:8回(1986年-1993年)。 |
| ゴールデングラブ賞:11回(1987年-1996年、1999年)※福本豊の12回に次ぐ、歴代2位。 |
| 正力松太郎賞:1回(1991年)。 |
| 日本シリーズMVP:2回(1991年、1999年)※2球団でシリーズMVP獲得は史上唯一、37歳でのMVP獲得は史上最年長。 |
| 日本シリーズ優秀選手賞:2回(1987年、1992年)。 |
| 月間MVP:3回(1985年5月、1990年9月、1991年5月)。 |
| オールスターゲームMVP:1回(1994年第1戦)。 |
記録
| 初出場・初安打:1981年9月29日、対近鉄バファローズ戦(日本生命球場)、7番・三塁手として先発出場し、3打数1安打。 |
| 初盗塁:1984年4月2日、対南海ホークス戦(西武球場)。 |
| 初打点:1984年4月4日、対ロッテオリオンズ戦(西武球場)、2回に深沢恵雄から押し出し四球。 |
| 初本塁打:1984年4月14日、対阪急ブレーブス戦(西武球場)2回に森浩二から左越ソロ。 |
| サイクルヒット:1回(1989年7月13日、対近鉄バファローズ戦、藤井寺球場) ※史上40人目。 |
| 9年連続シーズン30本塁打以上(1985年-1993年)※王貞治の19年連続に次ぐ、歴代2位。 |
| 5試合連続本塁打(1985年5月19日-5月26日、1991年5月4日-5月9日)。 |
| 通算400本塁打・300盗塁達成(1999年)※張本勲に次ぐ、史上2人目。 |
| オールスターゲーム出場:18回(1985年-2002年)※18年連続出場は、史上最長。 |
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1962年
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秋山 幸二(あきやま こうじ)は、熊本県八代... |
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1981年
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初出場・初安打:、対近鉄バファローズ戦(日... |
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