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プロフィール
- 稲尾和久とは
- 経歴
- 西鉄ライオンズ入団
- 神様、仏様、稲尾様
- 現役晩年、そして引退
- 引退後
- 投球術
- 起用法と記録
- 人物像
- 年度別投手成績
- タイトル
- 関連サイト
稲尾和久(いなおかずひさ、1937年6月10日-2007年11月13日)は、大分県別府市出身のプロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家。通称「鉄腕」。愛称は「サイちゃん」。血液型はB型
経歴
| 大分県別府市北浜出身。 |
| 7人兄弟の末っ子に生まれる。 |
| 漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃から艪を仕込まれ海に出されていた。 |
| 「薄い板一枚隔てて、下は海。 |
| いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がついた」と後年語っている。 |
| また、稲尾の強靭な下半身はこの漁の手伝いによって培われたものと言われているが、稲尾本人は「バランス感覚は養われたかも知れないけど、下半身のトレーニングにはあまりなっていないよ」と否定している。 |
| 都市対抗野球大会で全国制覇した別府星野組にあこがれて野球を始めた。 |
| 星野組は西本幸雄が監督兼選手として率いた実業団チームであり、優勝後にオープンカーで別府市内をパレードしたが、観衆の中に少年の稲尾がいた。 |
| 彼は「星野組はスターだった」と回顧している。 |
| 中部中学時代のポジションは捕手で、同校の生徒会長を務めたこともある。 |
西鉄ライオンズ入団
| 1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現:大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団した。 |
| 高校時代の先輩に河村久文、同期入団に畑隆幸がいる。 |
| 高校時代は全く無名の選手で、南海ホークスが獲得に動いていると知って初めて西鉄も獲得に乗り出したという。 |
| この時南海とは一旦契約寸前まで話が進んだが、父・久作の「大阪に行くよりも、何かあればすぐに戻って来られる九州の方がいい」という言葉、また西鉄に高校の先輩河村がいたこともあり、西鉄入団を決意した。 |
| 河村が西鉄経営陣に稲尾獲得を進言したとも言われている河村の著書『西鉄ライオンズ-伝説の野武士球団』や映画『鉄腕投手稲尾物語』でも語られている。 |
| 入団当初は注目された選手ではなく、監督の三原脩も「稲尾はバッティング投手(打撃投手)として獲得した」と公言していた。 |
| 実際、島原キャンプでは中西太・豊田泰光・高倉照幸ら主力打者相手の打撃投手を務めており、口の悪い豊田からは「手動式練習機」とも呼ばれていた。 |
| この時、稲尾は各打者の打撃練習中に4球に1球ボール球を投げるように指示された(ストライクを投げ続けているとバッターが打ち疲れてしまうため)。 |
| この4球のうちの1球をストライクゾーンのコーナーギリギリを狙って投げる練習をし、制球力を磨いた。 |
| こうして投手として成長した稲尾の前にキャンプ後半になると逆に打者が打ち取られる場面が増えたため、中西と豊田が三原に「稲尾を使ってみてほしい」と進言したという後に豊田泰光は週刊ベースボールの連載コラム(稲尾追悼回)にて「稲尾が打撃投手としてとられたというのは嘘。 |
| 三原監督は早くから稲尾に注目しており、また投手はまず打撃投手をさせるのが監督のやり方だった」と述べてもいる。 |
| この時代の日本プロ野球は、専業の打撃投手を置く球団がまだ存在せず、選手の中から事実上の打撃投手をやりくりしていた、という事情もあった。 |
| 稲尾はオープン戦に登板したものの、スコアボードに「稲生」と間違って表示されるなど未だ無名であった。 |
| しかしここで結果を残して開幕を一軍で迎え、開幕戦(対大映ユニオンズ戦)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から、河村の後を継いで2番手としてプロ初登板、4回を無失点に抑えた。 |
| その後もしばらくは敗戦処理などで登板していたが、投手陣の故障などから登板機会が増え、最終的には1年目から21勝6敗、パ・リーグ記録の防御率1.06という驚異的な成績を残し、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得したこの年、高橋ユニオンズの佐々木信也は新人にして154試合全試合にフルイニング出場し180安打を記録したが、新人王にはなれなかった。 |
| 稲尾との直接対決で18打数1安打と抑え込まれたことが一因とされる。 |
| 日本シリーズでは、シリーズ史上唯一の「パ・リーグ高卒新人投手として先発登板」を記録(セ・リーグ高卒新人では堀内恒夫・石井一久)。 |
神様、仏様、稲尾様
| 1957年にはプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど35勝を挙げ、史上最年少でのリーグMVPに選出。 |
| 1958年、33勝で史上初の2年連続MVP。 |
| 読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは、第1戦を稲尾で落とし第2戦も敗戦。 |
| 平和台球場に移動しての第3戦、稲尾を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。 |
| しかし翌日が降雨で試合が順延となった第4戦、三原監督は稲尾を先発投手に起用しシリーズ初勝利。 |
| 第5戦にも稲尾は4回表からリリーフ登板し、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手。 |
| そして後楽園球場での第6・7戦では2日連続完投勝利し、逆転日本一を成し遂げた。 |
| 実に7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。 |
| うち5試合に先発し4完投。 |
| 優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊った。 |
| 三原はこのシリーズで稲尾を使い続けたことについて、「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。 |
| それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白した。 |
| 後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている |
| 1959年、30勝を挙げ、史上唯一の3年連続30勝を記録した。 |
| 中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に、3年連続日本一(1956年-1958年)を達成するなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。 |
| 本多猪四郎監督による映画「鉄腕投手稲尾物語」が製作され、全国上映されている |
| 日本シリーズには通算4回出場し、通算8回出場の堀内恒夫と並び日本シリーズ最多タイの通算11勝を挙げている。 |
| 1961年、78試合に登板(パ・リーグ記録)し、ヴィクトル・スタルヒンに並び史上最多タイとなるシーズン42勝(阪急11勝1敗、南海11勝2敗、大毎9勝4敗、近鉄6勝1敗、東映5勝6敗)を記録した。 |
| なお、1961年当時、現在では42勝となっているスタルヒンの1939年の勝利数は40とされていた。 |
| スタルヒンの記録は当初42勝であったが、当時は勝利投手の基準が曖昧で記録員の主観で判定していた部分があり、戦後スコアブックを見直した際に明らかにスタルヒンに勝利を記録することが適当でないと思われる2試合があったため修正を行っていたのである。 |
| 稲尾が41勝を達成したとき、マスコミも「新記録達成」と大きく報道、本人もチームが優勝争いから脱落していたこともあって勝利数に関しては「もういいだろう」と思っていたという。 |
| それでもあと2試合登板したのはシーズン奪三振記録(当時は金田正一の350)の更新に目標を切り替えていたため。 |
| この間に1勝を上積みし、シーズン42勝とした。 |
| しかし、稲尾が「新記録」を樹立したことで改めてこの記録の扱いが議論に上り、最終的には「あとから見ておかしなものでも当時の記録員の判断に従うべき」という理由で再びスタルヒンの記録が42勝に変更された。 |
| 結果的にあと1勝を上積みしたことによって稲尾はタイ記録に名を残すことができたが、稲尾は「それまでの記録が42勝と知っていれば、何が何でも43勝目を狙いに行っていただろう」と述懐している。 |
| 1962年8月25日、通算200勝を達成。 |
| 25歳86日での達成は金田正一に次ぐ年少記録。 |
| 1963年も28勝を挙げて西鉄優勝に貢献。 |
| しかしマスコミの論調は28勝は稲尾にしてみれば「並の成績」という扱いだったこの年の西鉄優勝を報じた読売新聞は「『稲尾頼り』から脱皮」というコラムを掲載した。 |
| この年からMVPはタイトルの日本語名が「最高殊勲選手」から「最優秀選手」に改められ、「優勝チームから選出」という制約が外されていた。 |
| この結果、西鉄が優勝し稲尾はその立役者だったにもかかわらず、MVPは当時のプロ野球新記録となる52本塁打を記録した南海の野村克也が選ばれた。 |
| 日本シリーズはON砲が開花した巨人に初めて敗北を喫したが、一本足打法を会得し、一気に中心打者に成長した王貞治(このシリーズでもタイ記録となる4本塁打を放った)のことは微妙にステップを遅らせるフォームを猛練習することにより11打数1安打とほぼ完璧に抑えている。 |
現役晩年、そして引退
| しかし、それまでの酷使がたたって肩を故障し、1964年はプロ入り後初めて1勝も挙げられないシーズンとなった。 |
| 1966年、肩の故障を機にリリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した。 |
| なお、10月4日の対東京オリオンズ戦を75球で完投し、オリオンズの小山正明投手も87球で完投、合計162球の最少投球数試合の記録を作った。 |
| 球団からの監督就任要請後も、黒い霧事件の発覚で投手を失う可能性も出ていたため、選手兼任を望んでいたが、悪化するばかりの状況の中で引退を余儀なくされた2004年にNHK衛星第1テレビジョンで放送された「スポーツ大陸よみがえる熱球第7集「二つの引退」」のインタビューで自ら述べている。 |
| 稲尾が現役時代に着けていた背番号24は、1972年に西鉄の永久欠番となった。 |
| そのため監督時もそのまま背番号24を着用していたが、翌1973年、親会社の身売りにより失効。 |
引退後
| 「黒い霧事件」のため次々と主力を失い、球団が西日本鉄道から福岡野球株式会社に売却される(太平洋クラブは、ネーミングライツによる冠スポンサー)という中で指揮をとり、3年連続最下位になるなど低迷した。 |
| ただし後に大投手となる東尾修や加藤初を酷使と批判されながらも若手時代に積極的に起用した。 |
| 1973年には、太平洋球団フロントが話題作りにと画策した「ロッテとの対立を演出する」という営業方針に、ロッテ監督の金田正一からの誘いに応じる形で同意したが、関係者の予想を上回る反応をよび「遺恨試合」とまで呼ばれる事態に至った(ライオンズとオリオンズの遺恨を参照)この演出を画策した当時の球団専務である青木一三は金田にのみアイディアを話したと著書に記している『ここだけの話プロ野球どいつも、こいつも…』ブックマン社、1989年、P138-140。 |
| しかし、1974年に球団がポスターにドン・ビュフォードが金田を乱闘で押し倒した図柄のポスターを作成する(警察の要請を受けて回収)と「何も乱闘まで営業材料にする必要はあるまい」と、球団の経営方針に相容れないものを感じるようになっていたという稲尾和久『神様、仏様、稲尾様』日本経済新聞社、2002年、P227。 |
| 同年オフ、青木一三の「東尾か加藤をトレードに出す」という方針に反対したところ、後日「来季の監督は江藤君に決めたから」として解任された『神様、仏様、稲尾様』P228。 |
| 主にRKBラジオでの太平洋クラブ・クラウンライター戦の解説を務めた当時、RKBラジオの野球中継の広告に書かれたタイトルは、『稲尾和久のRKBエキサイトナイター』だった(ただし、解説者は稲尾の他に野口正明もいた)。 |
| 1978年から1980年まで中利夫監督の下で中日投手コーチを務め、2年目の1979年には藤沢公也が新人王になっている。 |
| 1979年、知人の日本航空パイロットからの誘いで「日本航空棒球隊」総監督になり、何度も中国に赴き中国チームとの親善試合、技術指導をしていた。 |
| その縁で、亡くなる直前の2007年9月29日、日本航空羽田―上海虹橋線就航セレモニーの特別ゲストとして祝辞を述べていた。 |
| 1982年に大阪に移り、1983年まで朝日放送(ABCラジオ)で野球解説者を務めた。 |
| 1984年、ロッテオリオンズ監督を務める。 |
| 埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく、1986年限りで退任。 |
| 1987年にロッテオリオンズ監督を退任し、完全にユニフォーム生活から引退した後には日刊スポーツ野球評論家、再び朝日放送の解説者を務め、2000年からは再びRKB毎日放送の専属解説者を務めた。 |
| 2001年にプロ野球マスターズリーグが発足すると福岡ドンタクズの監督としても活躍した。 |
| 2006年、長らく沢村賞選考委員を務めていたが、委員長の藤田元司が亡くなったことを受け、委員長を務めた。 |
| 12月11日、日本政府は、多年に亘る稲尾和久の日本野球界への貢献、そして野球ファンに感動と勇気を与えたその功績を称え、死去した11月13日付で稲尾に旭日小綬章を授与することを閣議決定した。 |
投球術
| 足の裏を全て地面に付けず、爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで、小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだといわれている。 |
| 1961年にプロ入りして中日ドラゴンズのエースとして活躍した権藤博は、「稲尾さんのコピーを目指した」という程、稲尾のフォームを手本にしたという。 |
| しかし、スライダーも屈指のもので、青田昇も「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価している。 |
| これを他チームは稲尾-浜崎ラインと呼んで恐れた大沢啓二談、『サンデーモーニング』週刊御意見番(TBS系)、2007年11月18日。 |
起用法と記録
| それに加え、三原脩監督が稲尾を重点的に起用する方針を採ったため、米田哲也や梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても稲尾の登板試合数が極端に多い。 |
| 稲尾の重点起用で西鉄が3年連続日本一という結果を出して以降、稲尾や杉浦忠(南海ホークス)、権藤博(中日ドラゴンズ)など酷使が原因で選手寿命を縮める投手が相次ぎ、これがきっかけで先発ローテーション制を整備する動きがみられるようになった。 |
人物像
| 体はごついが、優しい目をしているサイに似ていたほか、私生活がサイのようにゆったりとしていたことから、親しみを込めて『サイちゃん』この愛称を最初に呼び始めたのは先輩の河村と和田博実である。 |
| 2005年、仰木彬が亡くなり、プロ生活の大半を過ごした関西地方(場所は神戸市)でお別れ会の話が出た時に「福岡(福岡県)は仰木さんの故郷で親類や知人も多い。 |
年度別投手成績
| 2000イニング以上投げて通算防御率が1点台の投手は4人しかいないが、稲尾以外の3人(藤本英雄1.90、野口二郎1.96、若林忠志1.99)は現在ほどボールが飛ばず投手有利と言われた戦前・戦中の時代を経験している投手で、しかも4人の中で投球回数が最も多い。 |
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1956年
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大分県立別府緑丘高等学校(現:大分県立芸術... |
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1957年
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プロ野球記録となるシーズン20連勝を記録する... |
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