| 延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。 |
| 入唐(にっとう)直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。 |
| 伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。 |
| 第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。 |
| 最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。 |
| 同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。 |
| 空海が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。 |
| この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。 |
| 空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。 |
| 海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。 |
| このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。 |
| 同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。 |
| 永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。 |
| 長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。 |
| 密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。 |
| 空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。 |
| 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。 |
| 6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。 |
| ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。 |
| 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。 |
| この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。 |
| このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。 |
| 8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。 |
| 恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。 |
| 伝法の印信である。 |
| 阿闍梨付嘱物とは、金剛智-不空金剛-恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。 |
| 対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。 |
| 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。 |
| 元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。 |
| そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。 |
| ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。 |
| 8月に明州を出航して、帰国の途についた。 |
| 途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗し、以来、大宝寺を西の高野山というようになった。 |
| 福江に本尊虚空菩薩を安置してあると知った空海は参籠、満願の朝に明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修業し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという平山徳一『五島史と民俗』(私家版1989年)。 |