| 1940年長崎県長崎市に生まれる。 |
| 父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。 |
| 戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父方のいとこに当たる。 |
| 1942年(昭和17年)父が文部省職員として北京の師範学校副校長となったため、一家で中華民国へ渡る。 |
| 1946年6歳の時、引揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里茨城県水戸市に移る。 |
| 茨城師範学校(茨城大学)付属小学校、中学校を経て、1956年(昭和31年)に水戸一高、千葉県に移ったため東京都立上野高等学校への転入を経る。 |
| 小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している(『ぼくはこんな本を読んできた』で紹介)また、中学時代は陸上競技にも熱中。 |
| 俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩であり、三人とも陸上競技選手であり優秀な力を持っていた。 |
| 1959年(昭和34年)理系志望であったが色弱のために諦め、東京大学文科二類へ入学。 |
| 在学中は小説や詩も書き、イギリスで開かれた反核会議にも参加。 |
| 卒業論文はフランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン。 |
| 1964年文学部仏文科を卒業し、文藝春秋に入社、「週刊文春」に配属されるが、もっともやりたくない仕事であるプロ野球の取材をさせられたことから退職を決意。 |
| 2年後のことである。 |
| 1967年(昭和42年)東京大学文学部哲学科に学士入学。 |
| しかし翌68年に東大紛争が勃発し大学が休校となる。 |
| 休校中に文春時代の仲間の誘いで文筆活動に勤しむようになり、フリーライターとして活動を開始する。 |
| 創刊時の雑誌『諸君!』に「生物学革命」、「宇宙船地球号」、「石油」などをテーマとしてノンフィクションや評論を書く。 |
| 1968年「立花隆」のペンネームで文藝春秋増刊号「素手でのし上がった男たち」を発表。 |
| 『諸君!』の初代編集長田中健五(のちの文藝春秋編集長)との交友が後の「角栄研究」に繋がる。 |
| 1969年 この前後の時期に「文藝春秋」や「週刊文春」に「60年安保英雄の栄光と悲惨」、「東大ゲバルト壁語録」、「この果てしなき断絶」、「実像・山本義隆と秋田明大」などを発表。 |
| (「立花隆のすべて(下)」文春文庫に所収)。 |
| 1970年東大紛争中(休校期間)の学費支払いを巡り大学事務と衝突。 |
| 東京大学哲学科を中退。 |
| 1972年イスラエルをはじめ中東各地、地中海・エーゲ海を中心としたヨーロッパ諸国を放浪する。 |
| また一時期、新宿でバー『ガルガンチュア立花』を経営し自らバーテンも務めていた。 |
| 1974年(昭和49年)『文藝春秋』に「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表。 |
| 資料を駆使し、多人数による取材に裏打ちされた記事は大きな反響を呼び、田中退陣のきっかけを作ったとされる。 |
| 文藝春秋は角栄批判から手を引くが(その為単行本は講談社で出された)、その後も発表場所を変え、折に触れて田中金脈問題を取り上げ、ロッキード事件で田中が逮捕された後は東京地裁での同事件の公判を欠かさず傍聴し、一審判決まで『朝日ジャーナル』誌に傍聴記を連載した。 |
| また同誌上で「ロッキード裁判批判を斬る」を連載し、俵孝太郎、渡部昇一ら田中角栄擁護論者を「イカサマ論法にして無知」と批判した。 |
| なお渡部は後年には、立花のことを高く評価するコラムを雑誌に発表している。 |
| 朝日ジャーナルでの担当者は筑紫哲也。 |
| 以後しばしば筑紫の番組に出演するなど公私ともに親交があった。 |
| また「ロッキード事件」の「全日空ルート」を、全日空による事実上独立した収賄事件である「全日空疑獄」だとし全日空とその経営陣を断罪した。 |
| 1976年(昭和51年)には『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載。 |
| これに対して党側が組織的な反立花キャンペーンを展開して反論し、大論争に発展する。 |
| また、「総合商社」、「農協」、「中核・革マル」、脳死問題など巨大な権力、組織の徹底究明のジャーナリズム活動を行う。 |
| 政治関係の記事を執筆する一方で、『諸君!』時代に書いていたサイエンス関係のテーマにも手を広げ、1981年には『中央公論』に「宇宙からの帰還」を発表。 |
| 平凡社『アニマ』に連載された「サル学の現在」、ノーベル賞受賞者利根川進との対談『精神と物質』、『科学朝日』に連載された「サイエンス・ナウ」「電脳進化論」「脳を究める」、など数多くのテーマを手がける。 |
| また、NHKやTBSなどにおいてドキュメンタリー番組制作にも携わり、連動した臨死体験などの著作もある。 |
| これらの業績で1983年に菊池寛賞、1998年に司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞。 |
| 1995年アニメ映画「耳をすませば」で主人公の父親役を演じ作品の話題作りに一役買った。 |
| 東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。 |
| 1996年-1998年には、東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催。 |
| ゼミは2005年に再開され、現在も続いている。 |
| 1998年神戸連続児童殺傷事件の検事調書を文藝春秋社が入手。 |
| これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。 |
| 少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。 |
| 掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。 |
| 立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 |
| この時期にも、『画家香月泰男』関連など様々な形でNHKなど放送メディアに出演した。 |
| 2002年12月25日に大きな大腸ポリープがS字結腸に発見され切除するが、癌化を疑い自らを被写体として健康状態の患者からポリープが発見され切除、がんかどうかの病理検査、診断、告知までのドキュメンタリー番組の制作をNHKに提案。 |
| それは面白そうだとNHKが話に乗ってきて撮影開始。 |
| このとき、約束をしながら果たしていない約束が7つほどあることが判明。 |
| これは簡単には死ねないと感じる。 |
| いちばんの大仕事は1998年から連載していた『わたしの東大論』を本にする仕事であった。 |
| 1999年頃には長年連れそった前妻が末期がんに侵され、彼女の依願で病院に同行を繰り返したりするが、1年間の闘病の末2000年に亡くなっており、この頃よりがんに対する関心が深くなる。 |
| 2005年東京大学大学院総合文化研究科特任教授に就任。 |
| 2007年東京大学大学院情報学環特任教授、立教大学大学院特任教授に就任。 |
| 同年12月に膀胱癌の手術を受け、『文藝春秋』(2008年4月号)に手記「僕はがんを手術した」を発表。 |
| 2009年11月27日、鳩山内閣の事業仕分けで大型研究プロジェクトに交付される特別教育研究経費が予算要求の縮減と判定されたのを受けて全国各地の国立研究所長らと共に東京大学で記者会見を開き、「民主党は日本をつぶす気か」と仕分け結果を厳しく批判した。 |
| 「資源小国の日本は科学技術による付加価値で生きていくしかない」と指摘した上で、「目の前で起きている出来事を見て怒りに震えている」と話した。 |
| 作業風景の印象について「訳のわからない人たちが訳のわからないことを論じている」と突き放し、仕分け人を「バーバリアン(野蛮人)」と形容したリアルスポーツ(2009年11月28日)。 |
| ドキュメンタリー番組『旧友再会」(NHK)に梅宮辰夫と出演し、かつての住まい茨城県水戸市を訪問。 |