| 1934年(昭和9年)、父・筒井嘉隆と母・八重の長男として、母方の実家である大阪府大阪市西成区粉浜町(現在は住吉区に併合された地域)に出生。 |
| 室戸台風が通過した三日後、大水害の真っ只中であった。 |
| 生家は住吉区山坂町(現在の東住吉区山坂)筒井は自筆年譜などで船場生まれとしているが、八橋『評伝筒井康隆』によれば事実ではなく、筒井のイメージ戦略である。 |
| で、後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。 |
| 1941年(昭和16年)、南田辺国民学校に入学。 |
| 幼少期から漫画と映画に没頭し、小学生時代は『のらくろ』、エノケンに熱中。 |
| 自分でも漫画を描いて他の子供に売りつけるなどしていた。 |
| また父が蔵書家であったことから読書好きとなり、小学生の頃は江戸川乱歩を愛読した。 |
| 1944年(昭和19年)、吹田市千里山に学童疎開し、千里第二国民学校に転校。 |
| 地元の農家の子供から苛烈ないじめを受ける。 |
| 終戦後の1946年(昭和21年)、息子の成績不振を心配した父の計らいで大阪市立中大江小学校に転校。 |
| まもなく実施された知能検査で市内トップのIQ178であることが判明し、終戦後、当時大阪市によって設置されていた特別教室 |
| 1947年(昭和22年)、大阪市立東第一中学校(現在は統合で大阪市立東中学校)に入学。 |
| この頃から不良少年となり、授業をさぼって映画館に通い詰める。 |
| 父親の金をくすねたり、母親の着物を勝手に持ち出して質屋に売り映画代を捻出していたこの時期については筒井『不良少年の映画史』に詳しい。 |
| 1948年(昭和23年)、児童劇団「子熊座」に入団、演劇への興味が芽生える。 |
| 1950年(昭和25年)、大阪府立春日丘高等学校に入学。 |
| 演劇部の部長を務めるが学業は不振であった。 |
| 春日丘高校はもともと女学校であったため女生徒の数が多く、筒井はここで女生徒からいじめを受けて女性への恐怖心を植え付けられたとしている。 |
| また、自宅の蔵書だったアルトゥル・ショーペンハウエルの『随想録』も愛読していたという筒井『笑犬樓よりの眺望』筒井『漂流 本から本へ』P74~76。 |
| この頃マルクス兄弟の映画に傾倒。 |
| 受験勉強への反発から新潮社版世界文学全集を読破し、サルトルやトーマス・マンの作品に影響を受ける。 |
| 1952年(昭和27年)2月、関西芸術アカデミー研究科に研究生として入学。 |
| 同年4月、同志社大学文学部に入学し、同志社小劇場に所属する。 |
| この頃カフカ、アルツィバーシェフ、ヘミングウェイ等を愛読し影響を受けた。 |
| また潜在意識について興味を持ち、吹田市の実家から京都市までの電車での通学時間を利用して、日本教文社版のフロイト全集を読破。 |
| その後美学美術史学科に転じシュルレアリスムに興味を持つ。 |
| 1954年、関西芸術アカデミーを卒業して青年劇団「青猫座」に入団。 |
| 初舞台は飯沢匡の『北京の幽霊』。 |
| 同年日活のニューフェイスに応募するも、面接のみの二次試験で落選している。 |
| しかし「青猫座」での演技は高評価を受け、1955年(昭和30年)、大阪毎日会館で『二十日鼠と人間』主役を演じた際には、「東の仲代達矢、西の筒井康隆」と新聞に報じられた。 |
| 1957年(昭和32年)、大学を卒業。 |
| 卒論は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」。 |
| 卒業後、展示装飾などを手がける乃村工藝社に入社し営業部に勤務。 |
| サラリーマン劇団「明日」に入団し演劇活動を継続する。 |