| 平原の華歆、同郷の邴原と異郷に遊学し、陳寔に師事した。 |
| 後に戦乱が起きると、遼東郡太守の公孫度の政治の評判を聞いて邴原や平原の王烈らと遼東に避難した。 |
| 公孫度は屋敷を空けて管寧達を歓迎したが、管領達は公孫度に会うと、山中に庵を結んでそこに居住した。 |
| 曹操は司空になると管寧を招聘したが、公孫度の子の公孫康はこの知らせを管寧に伝えなかった。 |
| 中原が安定すると、遼東に避難していた人達は相次いで帰郷していったが、管寧だけは遼東にとどまった。 |
| 223年、魏において賢人を求める詔勅が出されると、司徒になっていた華歆は管寧を推挙した。 |
| 文帝は管寧を招聘し、管寧はそれに応じて故郷に戻ることになったが、このとき、公孫恭は管寧のために直々に郡境の南にまで見送りに出向き、衣服や器物を贈ったという。 |
| 管寧はそれまで公孫度・公孫康・公孫恭から贈られた物をすべて受け取っていたが、海を渡りきるとそれらの物を密封してすべて送り返した。 |
| 詔勅により太中大夫に任命されたが、管寧はこれを辞退した。 |
| 曹叡(明帝)が即位すると太尉になっていた華歆は自分の官位を辞退して管寧に譲ろうとした。 |
| 明帝はそれには気がすすまなかったともいうが、管寧を光禄勲に任命するよう詔勅を下し、青州刺史にも命令して州に招聘させようとした。 |
| 管寧は上書して感謝の意を示しつつも、丁重にこれを辞退した。 |
| 黄初年間から青龍年間にかけて、このような招待と辞退が繰り返されたという。 |
| あるとき、明帝は、青州刺史の程喜に対して、管寧の消息を尋ねさせたところ、程喜は管寧は高潔な生き方を貫こうとしているというよりも、老いで智力も体力も衰えているのであろうと述べた。 |
| 正始2年(241年)、太僕の陶丘一、永寧宮の衛尉の孟観、侍中の孫邕、中書侍郎の王基は上奏し、管寧を推挙した。 |
| 管寧の元に車が出され、贈り物も与えられたが、管寧は老衰のため死去していた。 |
| 84歳であった。 |