| 米家のルーツは昭武九姓の一国の米国(マーイムルグ)に住むソグド人で、中国に移り住んで「米」を姓とした。 |
| この西域の米国は唐の高宗の時代に大食に滅ぼされ、住民はシルクロードから中国に亡命したといわれる陳PP..6-7西川P.114。 |
| 米芾は皇祐3年(1051年)、襄陽で生まれた。 |
| 先祖は代々山西の太原に住み、後に襄陽に移った。 |
| 母の閻(えん)氏が英宗皇后(宣仁聖烈高皇后)の乳母として仕えていたことから、米芾は科挙を受験しないで官途につくことができた。 |
| 宋代は科挙至上主義であったので、これはかなりの特典だったといえる。 |
| しかし、彼の墓誌銘に、「科挙の学に従うを喜ばず、…」とあり、故意に受験しなかったとも考えられる。 |
| 地方の割合低い官吏を転任するが南方が多く、米芾は江南の山水を愛した。 |
| 彼は非常に書画がうまかった上に鑑識にすぐれていたため、崇寧3年(1104年)の書画学(宮廷美術学校)設立の際には書画学博士となった。 |
| そして、徽宗の側近に仕えて書画の鑑定にあたり、のちに礼部員外郎文部省課長級に相当(陳P.7)。 |
| に抜擢された(この官職名がかつて南宮舎人といったので米南宮と呼称された)。 |
| 徽宗の厖大な書画コレクションを自由に利用できたことにより、古典を徹底的に組織的に研究した。 |
| 彼は名跡を臨模し、鑑定をし、収集をし、そして鑑賞した書画についての多くの記述を残した。 |
| その著録はきわめて科学的であり、今日でも正確で信頼のおけるものである。 |
| このように彼の書は古法の探求を土台にしているため、品位と規模において南朝や初唐の大家に匹敵し、この後、彼以上の書家はついにあらわれなかった。 |
| その書は初め唐の顔真卿・褚遂良を学び、のち東晋の王羲之、魏・晋の諸名家に遡って研究をすすめた。 |
| 古来、彼ほど臨模のうまい者はいないといわれ、その精密さは古人の真跡と区別がつかなかったと伝えられる。 |
| よって、今日に伝わる唐以前の作品の中には、彼の臨模が混じっている可能性もある西林P.83。 |
| 彼の書について『宣和書譜』には、「おおかた王羲之に学んでいる。 |
| 」『宣和書譜』の原文(大抵書效羲之,詩追李白,篆宗史籀,隸法師宜官)と記されている。 |
| また、「米芾に正書なし。 |
| 」といわれるように、行書・草書に多くの名品を遺した。 |
| しかし、董其昌は『画禅室随筆』に、「米芾自身、最も自身をもっているのは小楷であり、彼はそれを大事にしたので多く書かなかったのだ。 |
| 」江守P.151『画禅室随筆』の原文と述べている。 |
| 蘇軾や黄庭堅と交友関係にあり、米芾が一番若かったので彼らは米芾を可愛がっていた。 |
| 米芾は傍若無人で、徽宗の前でも「黄庭堅は字を描くだけで、蘇軾は字を画くだけである。 |
| 」などと貶しているが、彼らが腹を立てた形跡はない。 |
| また、米芾は奇矯な性格で、古書・名画を貪欲に蒐集するばかりではなく、奇石怪石の蒐集も趣味とし、名石に出会うと手を合わせて拝み、石に向かって「兄」よばわりするほどであったと伝えられる石田(図説中国書道史)P.126。 |
| よって、しばしば狂人扱いされて「米顛」(べいてん、米芾の変わり者)とか「米痴」(べいち)などと呼ばれ、さまざまな逸話が生まれた。 |
| 服装も唐代のファッションをかたくなに守ったという魚住P.43。 |
| 崇寧5年(1106年)に知淮陽軍(ちわいようぐん)となり、翌年、淮陽軍の役所で没した(57歳)。 |
| 『宋史』(巻444)に伝が立てられている。 |