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プロフィール
- 米内光政とは
- 概要
- 生い立ち
- 海軍軍人として
- 海軍大臣
- 首相就任
- 帝国海軍の幕引き役
- 東京裁判
- 逸話
- 評価
- 関連サイト
米内光政(よないみつまさ、1880年(明治13年)3月2日-1948年(昭和23年)4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。海軍大臣、内閣総理大臣(第37代)などを歴任した。渾名は「金魚大臣」「グズ政」。身長180cm。
概要
| 海軍軍人として、第一遣外艦隊司令官、鎮海要港部司令官などを経て、第三艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、第二艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任した。 |
| 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官を務めたのち、林内閣にて海軍大臣となる。 |
| 以後、第一次近衞内閣、平沼内閣でも引き続き海軍大臣を務めた。 |
| 内閣総理大臣の阿部信行が内閣総辞職したことから、その後任として第37代内閣総理大臣に任命された。 |
| 海軍内の条約派として山本五十六、井上成美らと三国同盟・日米開戦に反対。 |
| その後最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。 |
| その反面、支那事変時に海軍大臣の任にあった際には、参謀本部がトラウトマン工作を受け入れ蒋介石政権との和平交渉を継続するよう主張する中で、交渉打切りを強く主張、日中戦争の泥沼化を招く原因を作った南京戦史資料集、偕行社、1989年。 |
| 太平洋戦争の戦局が悪化する中、小磯内閣にて、天皇の特旨を以て現役に復帰して海軍大臣となる。 |
| 以来、鈴木貫太郎内閣、東久邇宮内閣、幣原内閣で連続して海軍大臣を務め、太平洋戦争末期から終戦を経て海軍解体に至るまで海軍省を取りまとめた。 |
| なお、幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。 |
生い立ち
| 1880年(明治13年)、旧盛岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。 |
| 父が選挙に落選したり事業に失敗したりしたため、一家は困窮の中にあった。 |
| その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け、苦学の末、盛岡高等小学校、岩手県尋常中学校を経て、1901年(明治34年)に海軍兵学校を卒業(海兵29期)。 |
| 兵学校の同期生には高橋三吉大将、藤田尚徳大将らがいる。 |
| 米内の卒業席次(ハンモックナンバー)は中より下の68番(125人中)であった。 |
| 【逸話の項で詳述】。 |
| 1903年(明治36年)、任海軍少尉。 |
| 1905年(明治38年)、日露戦争に従軍。 |
| 1914年(大正3年)、海軍大学校を卒業。 |
| 第一次世界大戦後のロシアとポーランドに大使館付駐在武官として駐在し、ロシア革命の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析していた。 |
| ロシア革命に関する論文もある。 |
| 大戦後のドイツの首府ベルリンでも情報収集の任に当たっている。 |
| 将官昇進後は中国勤務も多かった。 |
海軍軍人として
| 1930年(昭和5年)には中将となり、朝鮮の鎮海要港部司令官に任じられるが、この地位は「クビ5分前」「島流し」といわれ、米内が赴任した頃は「一週間に半日仕事があれば良い方だ」といわれた閑職であり、本人も「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、この時に読書三昧の日々を過ごし、その読書の範囲は漢籍からロシア文学や社会科学、果ては中学の後輩である野村胡堂の小説まで、軍人の範疇を超えたもので「本は三度読むべし。 |
| 1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」という米内独特の読書法もこの頃に確立したものと思われる。 |
| この読書で培った知識・教養は後に海軍大臣や総理大臣になった際に大いに役立てている荒城二郎に送った手紙によると、毎日二時間は必ず読書の時間を設け、司令官といってもほとんどやることがない執務中にも読書をしていたという。 |
| 大臣秘書官だった実松譲中佐が米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。 |
| 特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。 |
| そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。 |
| 人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」と答え、「練習艦の米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。 |
| 1932年(昭和7年)以後、艦隊司令長官を歴任する。 |
| 佐世保鎮守府長官のとき友鶴事件が発生する。 |
| 米内は事件をあらゆる角度から検証して根本的な原因を見つけ出し、事件を解決に導いている。 |
| この時査問委員会の一人である森田貫一機関中将が佐世保を訪れて米内を訪ねた際、米内は「これは(日本海軍の)根幹に関わることだ。 |
| 僕はどうなってもいいから本当のことをしっかりやってくれ」と言っている。 |
| 森田は「偉い人だ。 |
| 米内さんが職を賭して徹底解決を推進されたことが成功の原因だった。 |
| 役人根性むき出しで責任回避をはかりうやむやにしていたら、日本海軍は大変なことになっていただろう」と感激したという吉田俊雄著『日本海軍のこころ』。 |
| 二・二六事件の起こった1936年(昭和11年)2月26日、米内は横須賀鎮守府司令長官だったが、新橋の待合茶屋に泊まっていた。 |
| 事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰ったらしい待合の女中の妹の結婚式に参加し、二次会で早朝まで東京に滞在していたことを待合の関係者が証言しており、それが事実なら当時女房役だった参謀長・井上成美が知らないわけがなく、井上が戦後に語った「思い出の記」では、意図的に米内を庇っていると思われる。 |
| 鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧の方向で大いに働いた。 |
| その後の人事異動で連合艦隊に転出、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に任ぜられた。 |
海軍大臣
| 1937年(昭和12年)、林内閣で海軍大臣軍政が嫌いだった米内は、連合艦隊司令長官を就任僅か2ヶ月で退任させられて、海相に任ぜられた事を非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。 |
| 、任海軍大将。 |
| その後第1次近衛内閣、平沼内閣でも海相を務めた。 |
| 米内が大臣に就任した当時、海軍省では山本五十六が次官を務めていたが、米内は山本をそのまま留任させた。 |
| 近衛内閣時代の1937年(昭和12年)8月9日に発生した第2次上海事変において、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。 |
| 翌14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。 |
| さらに8月15日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。 |
| また1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議では、「蒋介石を対手とせず」の第一次近衛声明に賛成している。 |
| また近衛内閣時代、ナチス・ドイツを仲介とした対中和平交渉であるトラウトマン工作の打ち切りを主張し、平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツ・イタリアとの提携、すなわち日独伊三国軍事同盟に反対し続ける。 |
| 同盟問題については昭和14年8月の五相会議の席上で、同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍として見通しはどうかと石渡大蔵大臣から問われた時にはっきりと「勝てる見込みはありません。 |
| 日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。 |
| 1938年(昭和13年)11月25日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。 |
| 当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識だったので、米内・山本両首脳も「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であったと思われる。 |
首相就任
| 1940年(昭和15年)1月16日内閣総理大臣に就任する。 |
| 天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べている。 |
| 吉田善吾海相らは現役に留まるよう説得したが、米内は総理が現役に留まることは統帥権を冒涜すると考えており受け入れなかった『山本五十六再考』pp.197-203(野村實・中公文庫)。 |
| 米内が予備役となったことは、軍令部総長・伏見宮博恭王の後任に米内を擬していた人事局を困惑させる事態であった。 |
| 就任直後の1月21日、千葉県房総半島沖合いの公海上でイギリス軍巡洋艦が浅間丸を臨検、乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜として連行する浅間丸事件が発生した。 |
| 米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は陸軍大臣・畑俊六を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。 |
| 6月7日に立憲政友会正統派総裁久原房之助が同様の要求を行って拒絶されると、内閣参議を辞職して松野鶴平鉄道大臣ら閣僚・政務官の引揚を通告した。 |
| だが、政党派内部では久原のように新体制運動を支持する意見と鳩山一郎のように立憲民政党と合同してでも政党政治を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかった事と、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任する羽目となった。 |
| 総理大臣を辞任した直後に、日光を訪れた際には「見るもよし聞くもまたよし世の中は 言わぬが花と猿はいうなり」という短歌と、「寝たふりをしても動くや猫の耳」という句を詠んでいる。 |
帝国海軍の幕引き役
| 1943年(昭和18年)、海軍甲事件で戦死した盟友、連合艦隊司令長官・山本五十六の国葬委員長を務める。 |
| だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに、井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった阿川弘之『米内光政』阿川弘之『山本五十六』。 |
| 山本の戦死が公表されると、米内は朝日新聞に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている朝日新聞昭和18年5月22日号。 |
| 1944年(昭和19年)、東條内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。 |
| 米内は、海軍次官の岡敬純を「岡は一夜にして放逐する」と更迭、横須賀鎮守府でコンビを組んだ井上成美(当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた井上は後に「貫禄負けでした」と述べている。 |
| だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木や木戸幸一内大臣に申し入れていたのだったこの経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している(井上成美『思い出の記』)。 |
| 天皇の真意は和平にあると感じていたからで、5月末の会議では阿南惟幾陸軍大臣と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切ったのちに米内と共に内閣で終戦を主張する外務大臣・東郷茂徳は当初どっちつかずの態度で、日記に「外務省は今の状況をわかっているのか」と苛立ちを書き記しているが、米内の地道な説得で和平へと傾いたといわれている。 |
| 8月9日の天皇臨席の最高戦争指導会議で、東郷、米内、平沼騏一郎枢密院議長は、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し阿南、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長は受諾には多数の条件をつけるべきで条件が拒否されたら本土決戦をするべきだと受諾反対を主張した。 |
東京裁判
| しかし、東條英機の責任については言明する事がなかった昭和16年(1941年)10月に近衞文麿が内閣を投げ出すと、後継首班を決める重臣会議では及川古志郎海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と岡田啓介で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。 |
逸話
| 他にも、1923年(大正12年)に練習艦「磐手」の艦長として訪問したニュージーランドの小学校で挨拶をした際は、「I'mgladtoseeyou,thankyou.」としか話さなかったり、海軍省最後の日となった1945年(昭和20年)11月30日に、最後の海軍大臣として挨拶をした際にも、朝日新聞の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わったなどといった逸話がある。 |
| 米内の下で軍務局長・海軍次官を務めた井上成美は戦後、「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛・加藤友三郎・米内の三人だけであったという井上の手にかかると、東郷平八郎でも「三等大将」であった。 |
評価
| 第1次近衛内閣で海軍大臣であった際、1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議において、蒋介石政権との和平交渉継続を強く主張する陸軍の多田駿参謀次長に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめたことが、中国における最も有力な交渉相手をみすみす捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させたとして批判の対象となることがある豊田穣などは「米内があまりに陸軍に不勉強、あるいは予想以上に陸軍が海千山千だった結果で、この反省は日独伊三国同盟締結の際の抵抗に活かしている」としている。 |
| 、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、終戦間際に井上成美海軍次官を大将に昇格させた上で次官を辞任させ、後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もある海軍軍人の政治音痴・政治嫌いは米内に限ったわけではなく、海軍全体の最大のネックとまで言われていた。 |
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