| 応仁の乱で敵対関係に至ったため、細川勝元と山名持豊(宗全)は不仲であったとされているが、はじめはそうではなかった。 |
| 当時、細川家は一族全てで9ヶ国の守護であったのに対し、山名氏は赤松氏を嘉吉の乱で滅ぼした功績から旧赤松領を併せて8ヶ国の守護になっていた。 |
| このため、勝元は持豊と争うことは得策ではないと考え、持豊の養女を正室に迎えることで協調することにしていたのである。 |
| また、政敵畠山持国に対抗する意味からも持豊と手を組む必要があった。 |
| 持国が6代将軍足利義教に家督を追われた元当主の復帰を図ると勝元はそれに対抗して義教に取り立てられた大名・国人を支持、持国は信濃守護に小笠原持長を任命、元加賀守護富樫教家・成春父子を支持、大和では元興福寺別当経覚と越智家栄・古市胤仙・小泉重弘・豊田頼英を支援した。 |
| 勝元はこれに対して小笠原宗康・光康兄弟や富樫泰高を支持、大和で経覚派と敵対している成身院光宣・筒井順永を支援、信濃・加賀・大和で持国と勝元の代理戦争が頻発した石田、p78-p94、p102-p108。 |
| 文安2年に近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させた。 |
| 享徳2年(1453年)に伊予守護職を河野教通から河野通春に改替、2年後の享徳4年(1455年)に自分が伊予守護となった。 |
| その後伊予守護職は通春に戻されたが、分家の阿波守護細川成之と通春が戦ったため、通春と対立していった。 |
| 享徳3年(1454年)、畠山氏で家督をめぐる内紛が起こった時には、持国を失脚させるため、舅にあたる山名持豊と共に持国の甥弥三郎を支援して持国の推す実子義就を追放に追い込んだ。 |
| しかし8代将軍足利義政が嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興を支援しようとすると、赤松氏の旧領を守護国に持つ持豊は赤松氏の再興に強硬に反対した。 |
| このため、持豊は義政から追討を受けそうになるが、この時は勝元が弁護したため、持豊は追討を免れた(この前後に持豊は出家し、宗全と名乗った)。 |
| 宗全が赤松則尚討伐のため但馬へ下向した直後に義就が上洛、弥三郎を追放し、翌年の持国の死で義政から当主に認められたため、両者に対抗して畠山氏の引き抜きを図った義政の謀略とされる石田、p109-p111、p124-p125。 |
| 義政の側近となった義就だったが、無断で大和へ軍事介入したことから義政の信頼を失い、一方の勝元も弥三郎と反義就派の大和国人への支援を続け、長禄3年(1459年)に弥三郎と成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信の赦免を取り付けた。 |
| 弥三郎は同年に没したが、弟の政長を支援して翌4年(1460年)に義就から政長に家督が交替、義就が吉野へ没落した後の寛正5年(1464年)に管領職を政長に交替した。 |
| しかし山名氏の勢力が勝元の想像以上に急速に拡大したため、勝元は宗全の勢力拡大を危険視するようになり、斯波氏の家督争い(武衛騒動)でも姻戚関係から斯波義廉を支持する宗全に対し、勝元は義廉と対立する斯波義敏を支持した。 |
| また、宗全がかねてから反対していた赤松氏の再興問題に関しても勝元は積極的に支援し、ついには赤松政則(赤松満祐の弟義雅の孫)を加賀半国の守護と成し、赤松家を再興させたのである。 |
| さらに勝元は勘合貿易の問題から大内教弘・政弘父子、河野通春らと敵対していたが、宗全はこれを支援するなどしたことから、細川と山名の対立構造が生じ始めた。 |
| また、はじめ継嗣がいなかった勝元は、宗全の末子豊久を養子にしていたが、文正元年(1466年)に実子政元の誕生後、豊久を廃嫡して仏門に入れるなど関係の悪化は明白となった(山名の血を引く政元を遠ざけ、分家の野州家から勝之を猶子に迎えたとも)。 |
| 寛正3年(1462年)に宗全の次男是豊を備後・安芸守護に任命、義就討伐に参戦させ、寛正5年に山城守護に任命したことも宗全への対抗とされる川岡、p180-p182。 |
| 文正元年、義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まる。 |
| この時、義政の側近伊勢貞親と季瓊真蘂は義政が当初後継者に指名していた弟の足利義視の廃嫡と義尚の将軍後継を義政に提言した。 |
| しかし義視を支持していた勝元はこれに反対、宗全も貞親が幕府内において権勢を強めていたことを苦々しく思っていたことから、この時は勝元に賛同し共に義政に対して貞親と真蘂の追放を訴え、これを強硬に実現させた(文正の政変)。 |
| 斯波義敏・赤松政則も失脚したが、後に復権している。 |
| これにより将軍家内部で実力者がいなくなると、宗全は12月、追放されていた畠山義就を上洛させ、義政に仲介して赦免の許しを出させた。 |
| さらに宗全は応仁元年(1467年)1月、義政に強請して勝元が支援する畠山政長の管領職を取り上げて出仕停止処分に処し、代わりに宗全が支援する斯波義廉を管領に任命させたのである。 |
| ここに至って、勝元と宗全の武力衝突は避けられないものとなった。 |