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プロフィール
- 織田信長とは
- 生涯
- 少年期
- 家督争いから尾張統一・上洛
- 桶狭間の戦いから清洲同盟へ
- 美濃攻略と天下布武
- 中央幕府の情勢
- 武田氏との外交
- 足利義昭上洛の警護
- 伊勢侵攻と北畠家簒奪
- 第一次信長包囲網
- 室町幕府滅亡と「天下」の継承
- 苛烈と云われる所業
- 肖像画
- 関連サイト
織田信長(おだのぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の1人。尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・ 織田信秀の嫡男。室町幕府を滅ぼし、織田政権を確立。 豊臣秀吉による豊臣政権、 徳川家康が開いた江戸幕府へと続く戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の1人であり、強力な中央政権の基礎を築いた人物。
生涯
| ※日付は和暦による旧暦。 |
| 西暦表記の部分はユリウス暦とする。 |
少年期
| 天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、那古野城『国史大辞典』 織田信長の項目 吉川弘文館。 |
| 一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。 |
| (勝幡城説もある『尾州古城志』)で生誕。 |
| 母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。 |
| 幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。 |
| 日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。 |
| また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。 |
| まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。 |
| また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。 |
| 天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。 |
| 天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。 |
| 天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。 |
| また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという「国友鉄砲記」より。 |
| 正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。 |
| 天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぐ信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたというエピソードが残っている。 |
| このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。 |
| 後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。 |
| 天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。 |
| これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。 |
| 信長は嘆き悲しみ、師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。 |
家督争いから尾張統一・上洛
| 当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。 |
| 信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。 |
| 信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。 |
| これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。 |
| 斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。 |
| こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。 |
| これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。 |
| なお信光も死亡しているが、死因は不明である。 |
| 弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。 |
| 信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。 |
| この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長に渡された。 |
| こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。 |
| これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。 |
| 道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。 |
| その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。 |
| 更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。 |
| しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てる。 |
| この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。 |
| 直接手を下したのは河尻秀隆とされている信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。 |
| さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。 |
| 新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。 |
| こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 |
| 永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。 |
| 当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。 |
桶狭間の戦いから清洲同盟へ
| 尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。 |
| 駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。 |
| 織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。 |
| 今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。 |
| 信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。 |
| そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。 |
| しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。 |
| (詳細は敦盛(幸若舞)を参照)、昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝。 |
| その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。 |
| 今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。 |
| 現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。 |
| 桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。 |
| これを機に、信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。 |
| それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。 |
| 両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。 |
美濃攻略と天下布武
| 斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。 |
| 桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。 |
| しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。 |
| 対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。 |
| その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。 |
| 一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。 |
| 永禄9年(1566年)には美濃国の要所である加治田城(佐藤忠能)や加治田衆を味方にし(後に信長の近親、斎藤利治を忠能の養子とした)、中濃の諸城(鵜沼城・猿啄城・堂洞城・関城)を堂洞合戦・関・加治田合戦において手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた(稲葉山城の戦い)。 |
| こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。 |
| このとき、井ノ口を岐阜と改称している出典:『信長公記』。 |
| 同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。 |
| 11月9日には、正親町天皇より綸旨を与えられ。 |
中央幕府の情勢
| 中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。 |
| 久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。 |
| しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。 |
武田氏との外交
| 美濃国において領国を接する甲斐国の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。 |
足利義昭上洛の警護
| 永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。 |
| これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。 |
| 六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開したただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀・六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。 |
| 信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。 |
| 永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。 |
| 春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。 |
伊勢侵攻と北畠家簒奪
| 伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。 |
室町幕府滅亡と「天下」の継承
| 武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した室町幕府の滅亡により、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている(神田千里「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002)。 |
苛烈と云われる所業
| 豊臣秀吉が天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した行為同年12月5日の羽柴秀吉書状、武田信玄・上杉謙信等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を奴隷として売却すること(ルイス・ソテロ等の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為等もことさら珍しいことではなかった。 |
肖像画
| 信長の肖像画としては、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)文化庁オンラインに画像と解説あり |
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尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、那... |
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