59069
59442
738930
%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E7%8E%8B
%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E7%8E%8B
%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E7%8E%8B
%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E7%8E%8B
%E7%BE%8E%E5%B7%9D%E7%8E%8B
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 美川王の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
タグはありません
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 美川王とは
- 即位まで
- 治世
- 官位制の整備
- 参考文献
美川王(びせんおう、生年不詳-331年)は、高句麗の第15代の王(在位:300年-331年)。姓は高、諱は乙弗、または憂弗(『三国遺事』では瀀弗)。好壤王(『三国遺事』では好穣王)とも記される。第13代の 西川王の子の咄固(先代の 烽上王の弟)の子であり、『魏書』高句麗伝には乙弗利という名で現れる。300年9月に先王が廃されて王位に迎えられた。
即位まで
| 293年9月に先代の烽上王が乙弗の父の咄固に叛意ありとして死を賜った際に、乙弗は殺害されることを恐れて王宮を逃れていた。 |
| はじめ水室村の陰牟に雇われて働いていたが、王孫であることを知らない陰牟に酷使され、苦しみに耐えられず一年で逃げ去った。 |
| その後、東村の再牟とともに塩売りをしていた。 |
| 鴨緑江の東の思収村のある家で、老婆に塩をせがまれ一斗ばかりを与えるが、さらにせがまれたところ与えなかったために恨まれ、履(くつ)を塩の中に入れられた。 |
| それとは知らず塩売りにでたところ、老婆は鴨緑宰(役人)に訴え出て、鴨緑宰は履の値段に相当する塩を老婆に与えさせ、乙弗を笞刑にした。 |
| 乙弗の顔はやせ衰え、誰が見ても王孫だとは思えなくなっていた。 |
| 烽上王の暴政のなか、これを廃位しようとしていた国相の倉助利は乙弗を探し出し、説得したうえで鳥陌の南家にかくまった。 |
| 300年9月、倉助利らは烽上王を廃位して幽閉し、乙弗を迎えて王位につけた。 |
治世
| 西晋の混乱に乗じ、積極的に中国領への侵攻を進めた。 |
| 302年9月には三万の軍隊を率いて玄菟郡に侵入し、捕虜八千人を得て平壌この平壌が東川王の築城した集安付近の平壌城を指すのか、楽浪郡のあったピョンヤン地方を指すのかは明らかではない。 |
| あわせて東川王#治世を参照。 |
| に移住させた。 |
| 311年8月、遼東郡の西安平を襲撃して奪い取り、313年10月、楽浪郡に侵入してこれを滅ぼし、翌314年には帯方郡を滅ぼした。 |
| さらに315年2月にも玄菟城を攻め、殺したり捕虜にしたりした人数が甚だ多かったという。 |
| 中国東北部の覇権が鮮卑の慕容廆に移った後、西晋の平州刺史崔毖の誘いで高句麗は段部・宇文部とともに慕容廆を攻めるようになるが、下すことはできなかった。 |
| そればかりでなく宇文部の将が鮮卑に大敗すると、319年12月には崔毖が高句麗に亡命してくることとなった。 |
| その後、遼東の地は慕容廆の子の慕容仁が鎮守し、鮮卑慕容部と高句麗との対立は深まった。 |
| 河城にあった高句麗の将軍如孥に対し慕容廆は張統を派遣して急襲し、如孥をはじめとする捕虜千余人を得て棘城(遼寧省朝陽県の南東)に凱旋している。 |
| この後も美川王は度々兵を派遣して遼東を襲撃したが、慕容仁・慕容翰に阻まれている。 |
| いったんは和親が成立して慕容仁らは退却したが、320年にも遼東に侵略を試み、慕容仁に撃ち破られている。 |
| 美川王は330年に後趙の石勒のもとに朝貢しており、鮮卑の勢力拡大の抑制を図った。 |
| この時期、中国は五胡十六国時代に突入しており、周辺諸民族がそれぞれの国制を整備して多様な外交を展開していくなかで、高句麗もまた各種の勢力と対立・依存の関係を結び、東北方面の強国として存在することとなった。 |
| 在位32年にして331年2月に死去し、美川の原に埋葬されて美川王と諡された。 |
| のち、故国原王の12年(342年)に前燕のに侵攻された際に、王陵があばかれて屍を持ち去られている。 |
官位制の整備
| 美川王の時代に、それまで10段階であった官位制を再編して13段階の官位制に整備したと考えられている。 |
| これにより王権を支える基盤は強化され、その後の高句麗の発展の基礎となったとされる。 |
| 官位制について詳細は高句麗#官制を参照。 |
参考文献
| 『三国史記』第2巻金富軾撰井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983ISBN4-582-80425-X。 |
| 『朝鮮史』武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000ISBN4-634-41320-5。 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
|
|
烽上王
高句麗の第14代の王(在位:292年-300年)。姓は高、諱は相夫、あるいは歃矢婁ともいい、雉葛王とも記される。先代の西川王の子であり、年次は不明であるが太... |
|
|
故国原王
高句麗の第16代の王(在位:331年-371年)。姓は高、諱は斯由、または釗(『梁書』は劉とする)。国岡上王(『三国史記』高句麗本紀・故国原王紀の分注)、国... |
|
|
比流王
比流王(ひりゅうおう、生年不詳-344年)は百済の第11代の王(在位:304年-344年)であり、第6代の仇首王の第2子。諱・諡は伝わっていない。304年10月に先代... |
|
|
西川王
高句麗の第13代の王(在位:270年-292年)。姓は高、諱は薬盧、または若友。西壤王ともいう。先代の中川王の第2子であり、255年に王太子に立てられ、270年10月... |
|
|
東晋
中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年-420年)。西晋に対し史書では東... |
|
|
仁徳天皇
日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)-同87年1月16日(399年2月7日))。古事記の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御が西暦394年、仁... |
|
|
応神天皇
第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日(270年2月8日)-同41年2月15日(310年3月31日))。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけの... |
|
|
汾西王
汾西王(ふんせいおう、生年未詳-304年)は百済の第10代の王(在位:298年-304年)であり、先代の責稽王の子。母は帯方郡の太守の娘である宝菓夫人。諱・諡は... |
|
|
長寿王
高句麗の第20代の国王(在位:413年-491年)。姓は高、諱は巨連。『魏書』などには「璉」の名で現れる。先代の好太王の長子であり、409年に太子に立てられ、41... |
|
|
小獣林王
高句麗の第17代の王(在位:371年-384年)。姓は高、諱は丘夫。小解朱留王ともいう。先代の故国原王の子であり、355年に太子に立てられ、371年10月に先王が百... |
|
|
東川王
高句麗の第11代の王(在位:227年-248年)。姓は高、諱は憂位居、幼名は郊彘。東襄王ともいう。先代の山上王の子であり、213年に太子に立てられ、227年5月に先... |
|
|
近肖古王
近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳-375年)は百済の第13代の王(在位:346年-375年)であり、第11代の比流王の第2子。中国・日本の史書に初めて名の現れ... |
|
|
嘉平
三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた2番目の元号。249年-254年。嘉平6年は10月に改元されて正元元年となった。6年10月:斉王が廃立され、高貴郷公曹髦が即... |
|
|
故国壌王
高句麗の第18代の王(在位:384年-391年)。姓は高、諱は伊連(『三国遺事』王暦では伊速)、または於只支。『三国遺事』では国壌王と記される。先代の小獣林... |
|
|
元帝
東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬伷、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王... |
|
|
中川王
高句麗の第12代の王(在位:248年-270年)。姓は高、諱は然弗。中壌王ともいう。先代の東川王の子であり、243年に王太子に立てられ、248年9月に先王の死去とと... |
|
|
山上王
山上王(さんじょうおう、生年不詳-227年)は高句麗の第10代の王(在位:197年-227年)。姓は高、諱は延優または位宮。先代の故国川王の弟であり、故国川王が1... |
|
|
聖王
百済の第26代の王(在位:523年-554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明穠。先王が523年5月に死去したことにより、王位につ... |
|
|
美川王さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|