| 生活破綻者であった父親には今でも激しい恨みを抱いているが、度々映画館に連れて行かれており(敬愛するブルース・リーを知ったのもこの時である)、その頃から映画に興味を持ち、後に自主映画の製作を趣味とするようになる。 |
| 新日本プロレスは一度不合格になっているが、高校入学の前日に山本小鉄に気に入られ入団、同期に武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、野上彰(現AKIRA)。 |
| 日本の男子プロレスとしては当時史上最年少記録である15歳11か月でデビュー(現在の最年少記録は中嶋勝彦の15歳9か月)、26歳で入門した同じヤングライオンの後藤達俊との年齢差が話題になった。 |
| 第1次UWFとの抗争では野上彰とのタッグで前座の名勝負を繰り広げ、新日サイドからは次代のエースとして期待された。 |
| しかし、1989年に、前田日明、藤原喜明の誘いに応じヨーロッパ遠征中に第2次UWFに入団。 |
| このことに関してアントニオ猪木は「プロレスに移籍は無いが、特例で移籍とした」と話している。 |
| UWFでは真剣勝負での興行を直訴するが前田ら上層部に時期尚早として却下され、後に理想の団体の設立を盟友鈴木みのると模索するようになる。 |
| 1990年12月に第2次UWFが崩壊すると、藤原組の旗揚げに参加。 |
| 1992年4月19日には東京体育館での藤原組の旗揚げ一周年記念興行でロベルト・デュランと異種格闘技戦を行った(3ラウンド腕固めで勝利)。 |
| 藤原組のエースとして試合を重ねるも、より格闘技的な路線を志向したために、次第に藤原の志向との溝が深まり、1992年12月に藤原組を離脱した格闘技通信1993年2月23日号4-7頁。 |
| 藤原組離脱後は、どの団体にも所属せず、鈴木みのる、高橋義生(現高橋和生)らとともに練習を重ね、パンクラスを組織。 |
| 1993年9月21日、パンクラス旗揚げ戦を行う。 |
| 船木はメインイベントでケン・シャムロックに肩固めで一本負け。 |
| 1996年9月7日、バス・ルッテンの持つタイトル、キング・オブ・パンクラスに挑戦し、KO負け。 |
| 試合後に「明日また生きるぞ」と発言した。 |
| 1996年12月15日、新王者決定トーナメントで近藤有己、ジェイソン・デルーシアを破り第4代キング・オブ・パンクラシストとなった。 |
| 1997年4月27日、近藤有己とタイトル防衛戦を行い、腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫しタイトル防衛に失敗した。 |
| 1997年12月20日、近藤有己とタイトルマッチを行い、アームロックで一本勝ちを収め王座再戴冠に成功した。 |
| 1999年3月1日、長谷川悟史が道場近くのマンションから転落し、骨折に基づく外傷性出血ショックで死去。 |
| 転落の状況が不自然だとして船木は事情聴取を受けた。 |
| 2000年5月26日、「コロシアム2000」にてヒクソン・グレイシーと対戦し、チョークスリーパーで失神負け。 |
| 試合後のインタビューで「格闘技は勝負は1回だけなので、失神したら終わりですから。 |
| 潔く足を洗う決心をしました」と発言し、引退を表明した |
| ヒクソンとの試合前に、柔術対策として、高橋選手の紹介で、柔術青帯(当時)のエンセン井上とスパーを行ったが、グラウンドでは歯が立たず、エンセンから「立ち技勝負でいったほうがいい」とアドバイスを受けた。 |
| エンセン井上のコメントが活字にされているものには雑誌「ゴング格闘技」2000年7月号がある(以下一部引用)。 |
| 「船木の方が勝つ可能性は大きい。 |
| 彼とはスパーリングをした。 |
| 非常に頭が良い選手。 |
| (佐藤)ルミナとやった時みたいな感じがした。 |
| 船木は冷静にいけるはず。 |
| 頭使えば勝つ可能性が強い。 |
| この試合に勝ったら是非PRIDEに出てほしい。 |
| それ位の強さがある」。 |
| 船木vsヒクソンの戦前予想では中井祐樹、小路晃、平直行、木村浩一郎、エンセン井上など「格闘技側」の人間からも船木勝利が予想されていた。 |
| また出稽古に関しては、1994年8月にウェイン・シャムロックと共にロスのマチャド柔術へ出稽古に行き、雑誌「格闘技通信」の安西記者が見ている前で極められまくった姿が報道されたが、事前に尾崎社長に「極められまくってきます」と伝えており柔術研究の色合いが濃いものでもあった。 |
| また衣を着た状態では極められまくったものの五男ジョンと四男ジアン。 |
| シャムロックは三男ヒーガンとスパー)、衣を脱いだTシャツ姿でのスパーでは一転してジョンは攻めあぐねなかなか極めることができず(9分経過時にTシャツの襟を使っての襟絞めでタップを取る)、裸のレスリングではまた違った展開になることも判った。 |
| 2000年9月27日、自身のテーマ曲『船木誠勝〜REDZONE引退記念シングル』が発売された。 |
| 2000年12月4日、地元青森県で行われたパンクラス「船木誠勝引退記念興行」で全試合終了後に引退セレモニーが開催され、藤原喜明、佐山聡、藤波辰爾、山本小鉄、獣神サンダー・ライガー、夢枕獏らがリングに駆けつけた。 |
| 師匠・藤原とお互い涙しながら抱擁しあった。 |
| 最後は船木の胴上げが行われた |
| 2005年9月、前田日明がスーパーバイザーを務めるプロレス団体『ビッグマウス・ラウド』旗揚げ戦で、リング上から挨拶、全面協力を宣言した。 |
| 柴田勝頼を気に入っており、彼と対戦するためにプロレス復帰を匂わせていた。 |
| 2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行でビッグマウス・ラウドを脱退。 |
| プロレス復帰に関する整合性の指摘に関しては、インタビューなどで総合に戻ることはないと常々断言していたが結局あやふやなままだった。 |
| BML脱退後も柴田との関係は続け、2007年3月には「チームARMS」を結成して |
| 2007年7月16日、HERO'Sミドル級トーナメント開幕戦において、休憩時間中に前田日明と共にリングに上がると、大晦日の現役復帰を宣言 |
| 8月28日の記者会見では復帰戦の対戦相手に桜庭和志を希望し、同席した桜庭も対戦を希望した |
| 同時に船木への批判とともに対戦を要求されていた |
| 2007年12月31日、K-1PREMIUM2007Dynamite!!のメインイベントで桜庭和志と対戦し、チキンウィングアームロックで一本負け。 |
| 入場時には、ラッセ(ねぶたをモチーフにしたみちのくプロレスの覆面プロレスラー)のマスクを被って姿を現した |
| 2008年4月29日、DREAM.2のミドル級トーナメント1回戦で田村潔司と対戦し、パウンドでTKO負け。 |
| 2008年9月23日、DREAM.6でかつての弟子ミノワマンと対戦し、踵固めで一本勝ち。 |
| 現役復帰後、初勝利となった。 |
| 試合後、「やっと復活できました。 |
| こんな自分でも、体が使える限り格闘技を支えていきたい」とコメントした |
| 2009年8月30日、全日本プロレス両国大会でプロレス復帰を果たし、メインイベントで武藤とタッグを組み、蝶野正洋・鈴木みのると対戦。 |
| ドロップキックを繰り出したり、トペ・スイシーダを狙おうとするなどの動きを見せた。 |
| 翌31日に全日本プロレスと1年契約を締結。 |
| 9月26日、鈴木みのるとシングルで対戦するも鈴木のレフェリー暴行により反則勝ち。 |
| 2010年1月3日、武藤と組んで世界タッグ王座を奪取。 |
| 3月21日両国大会で「金網マッチ」で鈴木と再戦し、レフェリーストップによるKO勝利を収めた。 |
| 2010年4月、チャンピオン・カーニバルに出場し決勝まで進出したが、決勝で鈴木に敗れ準優勝に終わった(対鈴木戦初の敗北)。 |
| 2010年8月30日、1年間の契約満了の更新に際して「継続参戦」とした上で全日本プロレスに正式に所属。 |