| 高校卒業後、山崎製パンの宣伝部員として入社するもやがて退社。 |
| 週刊誌でアニメーターの記事を読み、アルバイトのつもりで入社したTCJ動画センター(現・エイケン)でアニメーター生活をスタートし『冒険ガボテン島』でデビューを果たす。 |
| 放映終了後に同じ制作会社の『アルプスの少女ハイジ』のTCJ版パイロットフィルムで、キャラクターデザインに抜擢されるものの、パイロットフィルムの制作が終わってしばらくして企画自体が頓挫する。 |
| その後はテレビアニメ『サスケ』、『忍風カムイ外伝』の作画を行う。 |
| しかし後番組の『サザエさん』の作画を行なうことに疑問を感じて手塚治虫が創設した虫プロダクションへ移った。 |
| 虫プロダクションは『ムーミン』『ワンサくん』といった作品を終えると間もなく、1973年11月に倒産し、芦田はプロデューサーの西崎義展ら虫プロダクションのメンバーを中心で制作したテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)に作画監督として参加する。 |
| 『宇宙戦艦ヤマト』は後に大ヒットし、芦田の存在が目ざといアニメファンに注目されるきっかけになった。 |
| この仕事を終えるとフリーでやっていく力がないとして、1976年に作画スタジオの有限会社スタジオ・ライブを設立。 |
| 以後は同社を拠点にアニメーション制作へ関与していった。 |
| 1976年にテレビアニメ『UFO戦士ダイアポロン』でキャラクターデザインを手がけて以後、1979年『サイボーグ009』、1982年『魔法のプリンセスミンキーモモ』、1983年『銀河漂流バイファム』、1988年『魔神英雄伝ワタル』と1980年代には次々と人気アニメのキャラクターデザインを担当。 |
| その多くが芦田デザインの魅力が生かされた漫画の原作が存在しないアニメオリジナル企画だったため、キャラクターデザイナーとしてファンに認知されることとなった。 |
| 1981年の鳥山明原作のテレビアニメ『Dr.スランプアラレちゃん』ではキャラクターデザインこそ務めなかったものの、総作画監督の前田実を支えるメインの作画監督として活躍。 |
| もともとメルヘンものを中心とし石黒昇、小原乃梨子『私説・アニメ17年史』大和書房、1980年、p.206.、虫プロダクション調星山博之『星山博之のアニメシナリオ教室』雷鳥社、2007年、p.38。 |
| の可愛らしい芦田の作風だったが、これを経験したことにより大きな影響を受けた。 |
| 演出家としても活躍し、テレビアニメでの各話演出を経て1984年にはテレビアニメ『世紀末救世主伝説北斗の拳』で初のシリーズディレクターに就任。 |
| これをヒットに導き、後の劇場アニメ版の監督も任された。 |
| 1990年代は、テレビアニメ『空想科学世界ガリバーボーイ』(1995年)のシリーズディレクターとキャラクターデザイン、OVA『超幕末少年世紀タカマル』(1991年)のキャラクターデザイン。 |
| 2000年代に入ってからは、芦田率いるスタジオ・ライブが自社制作に乗り出して、テレビアニメ『超変身コス∞プレイヤー』(2004年)、『グレネーダー〜ほほえみの閃士〜』(2005年)でプロデュースを手がけ、テレビアニメ『F-ZEROファルコン伝説』(2003年)でキャラクターデザインを務めるなど第一線で活躍した。 |
| ただ変身三部作に関してはスタジオ・ライブ社長として名前がクレジットされただけで、実際のプロデュース業務は行っていない小黒祐一郎「この人に話を聞きたい芦田豊雄(後編)」『アニメージュ』2006年4月号、徳間書店。 |
| 1985年から、アニメ雑誌『月刊OUT』で投稿コーナー「芦田豊雄の人生冗談」を連載。 |
| 同誌はアニメファンからの投稿に力を入れた誌面作りを行いジョーク記事やパロディーに重点を置いた点が特徴で、芦田の連載も文章ネタ・イラストネタを交えたギャグを中心にしたのが人気を呼び「月刊OUT」の看板連載の一つになった。 |
| 当時の芦田は、ミンキーモモのデザイナーとして、可愛い絵を描くアニメーターとして知られており、最初は「トミー芦田」と名乗っていたが、UFO戦士ダイアポロンのキャラクターデザインをやっていた過去を暴露され、自虐的に「ダイアポロン・カリスマ芦田」と改名した。 |
| また内容的にかなり暴走し、性的なもの、下品なものを取り上げたため(女性が自らの膣に挿入したタンポンの紐を結んで綱引きするという、非常に過激・下品な架空イラスト投稿企画があった)、女性を中心に多くの読者の顰蹙を買う結果となった。 |
| その才能を買われた芦田は、その他のアニメ雑誌、漫画情報誌でもたびたびイラストエッセイやエッセイ漫画を発表。 |
| 『アニメーションノート』では、ハートフル芦田のペンネームで「ハートフル芦田のしごき部屋」を連載。 |
| 『らでぃっく』という同人誌もスタジオ・ライブで頒布した「ライブ制作「らでぃっく」が全アニメ誌に挑戦状!!」『アニメージュ』1984年11月号、徳間書店、p.99。 |
| また男性のアニメファン(いわゆるオタク)についても「仕様のない奴らだとは思うが、こういう連中が戦争を起こそう、などとは考えないであろう意味で安心している」と『アニメック』で吐露している。 |
| アニメ雑誌に関しては、1986年には『アニメージュ』の編集者に対して「なぜロリコンアニメを誌面で取り上げないのか」「『アニメージュ』自体が『ナウシカ』や『天使のたまご』を作って権威を持ってきちゃったから評論誌としては成り立たないんだよ」と述べた内容が掲載されたことがある『アニメージュ』1986年3月号、徳間書店、p85。 |
| この記事は「アニメランド」という業界人のコメントを取り上げるコーナーで、「(編集者とのやりとりを)パロディ風にまとめた」という編集者のコメントがある。 |
| なお、この時期『月刊OUT』が独自の手法でアダルトアニメを誌面で紹介したことがあった(大徳哲雄の項目を参照)。 |
| しかし、2000年代後半になると、アニメ界のベテランとして、アニメ業界人が自らの仕事に誇りを持てないことを憂え、キャリアを重ねても何の保証がない状況を危惧する発言をした。 |
| そして、2007年に自らが発起人となり、アニメ業界への問題提議と地位向上を目的とした日本アニメーター・演出協会(JAniCA)を設立 |
| 翌年に協会は、「文芸美術国民健康保険組合」に加入し、アニメーターが保険に入れるよう尽力した。 |
| 2011年7月23日死去。 |
| 67歳没 |
| 芦田はその少し前にスタジオ・ライブの社長から会長になっており、同社社長の職は神志那弘志が引き継いだ。 |