| 女優の吉村実子は実の妹で、彼女と結婚していた俳優の石立鉄男は義弟にあたる。 |
| また、彼女の母親は長年、東京・日本橋で長唄教室を営んでおり、晩年の弟子の中には自由民主党衆議院議員の野田聖子もいたという。 |
| その母親はその後重病を患い、晩年は軽度の認知症にもかかっており、死の直前はほぼ寝たきりの状態になってしまったが、妹・実子が全ての身の世話を見ることを自ら申し出たことから、芳村は資金的負担(介護用品・入院費など)を兄(因みに芳村姉妹の兄は大手広告代理店・電通の重役である)と共にすべて背負い(当時、芳村が前夫のミッキー・カーチスとの間に設けた息子が方々で問題行動を起こしており、姉の心労が絶えなかったことを実子が察して自ら介護をするとの申し出を行ったものと考えられる)、妹をサポートする形で母親の介護をしていたという。 |
| 表向きは華やかな雰囲気にあふれた人物であるが、実際は母親の壮絶な介護や妹夫婦の長年の不和の仲介(妹の実子と夫の石立は25年以上に及ぶ別居の後、1998年に離婚した)、息子の不祥事の後処理(2001年に覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕され実刑判決を受けた。 |
| 彼の裁判の証言台にも芳村は立ったというなど相当に家庭内の苦労も多く経験した人物でもある。 |
| ただそういった苦労を周辺の友人やテレビ画面の前には全く見せることはなく、そういった意味でも人格そのものも含め彼女に敬意を持っているタレント・ファッション関係者も多い。 |
| 歌手・早見優の母親とはモデル時代の同僚であり、1950年代後半、ファッションショーの舞台に幾度も共演した間柄である。 |
| 1960年に女優に転向して以降、映画『黄色いさくらんぼ』『秋津温泉』、ドラマ『ザ・ガードマン』へのゲスト出演などコンスタントに仕事を続けていたが、「女優という仕事は私の性格には合わない」と後年回顧している。 |
| 本人としては自分の思ったことを強く反映させられる場に仕事の場を求めていたらしく、『小川ショー』で2代目アシスタントに抜擢されていざ本番に臨んだ際、「これまで女優業では得られなかった充実感や面白さがあった」と感じ、その場で、女優業を辞める決意をしたという。 |
| ミニスカートを日本の女性タレントで最初に着た人物との説がある(芳村と親交のある野際陽子説もある)。 |
| 基本的に彼女のことを呼ぶ際、親しみを込めて(一説では本名の「稲」という名前を相当嫌っているとの話もある)「芳村さん」よりも「真理さん」と呼ぶ場合が多い。 |
| ただし、「料理天国」で長年相棒を務めた西川きよしは自分よりも10歳以上年齢が上であることや芸能生活も長いことなどをふくめ芸人の間柄でよく使われる「(芳村の)お姉さん」という呼称で彼女のことを呼んでいた。 |
| 40代の頃までは、喫煙愛好家(1960年代初頭にはタバコのCMキャラクターにも抜擢されるほどだった)であったが、50歳になり、将来の健康のことが不安となり、すっぱりタバコを断ったという。 |
| 顔に人差し指を付けて「どおもー」という仕草が一時期はやり、今でも若年層を中心にこのポーズを写真撮影するときの定番のポーズとして好んで使っている人も多く、芳村のいわば代名詞の如く語られるセリフともなっているのだが、実際に彼女がこの言葉を司会者として活躍していた時代に言ったことはさほどない(一説によれば、人差し指を付けて「どうもー」と番組冒頭の挨拶を芳村がしたのをみた明石家さんまが「ひょうきん族」で彼女の真似をしたことがきっかけで「どおもー」=芳村真理のイメージが浸透したらしい)。 |
| また、一時、研ナオコ司会のTBS系の音楽バラエティー「だぅもありがと!」(1986~1988放送)もこの芳村の「どおもー」から番組名が付けられた(研ナオコも当時芳村の「どうもー」をギャグとして真似ていたタレントの一人であった。 |
| 但し、研ナオコとは某番組で研がイニシャルトークではあったが芳村のことを「鬱陶しい」と言ったことを皮切りとして不仲であるとの説がある研がイニシャルトークで「鬱陶しい」と言ったのは楠田枝里子だとも言われていますが。 |
| 1988年に発売された著書・「芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE」(扶桑社・刊)によれば、「ヒットスタジオ」の司会は、当初、「ジャズの音楽番組の司会をしてほしい」という初代プロデューサー・伊藤昭の説明を受けて引き受けたものであったという。 |
| しかし、フタをあけてみれば、れっきとした「歌謡曲」を専門とする歌手をメインとした「歌謡番組」であり、当初の伊藤プロデューサーの説明と番組内容の違いから不信感を持ち、最初は数回司会をやったら番組を降りようと考えていたという。 |
| 台本(あるいは何らかのメモ書きが書かれた紙)を片手に持って司会をするという司会スタイルも独特であったが、この点「夜ヒット」最初の相手役・前田武彦は、芳村にとり台本は単なる「アクセサリー」にすぎないと述べている。 |
| マエタケは番組開始当初、芳村が台本を持ちながら司会に臨んでいることにつき「悪い癖だなあ」とあまり快く思っていなかったのだが(マエタケは放送作家出身という経歴の持ち主のためか自分以外の作家の書いた台本を軽視する傾向が強く、他の番組では放送中に公然と「台本不要論」を展開したこともあった)、一度放送の合間にその台本を見せてもらったところ、それが放送当日の台本ではなく、2週間前の放送時の台本であったことを知り驚愕し、同時に「面白いセンスを持っている」と評価し直したと回顧している。 |
| また、西川きよしも「お姉さんほど台本を片手で持つ姿が似合っている人はいませんね」とこの司会スタイルにつき述べたことがある。 |
| 経歴の項目に触れられているように、「夜のヒットスタジオ」では長年看板司会者である同時に、多くの出演歌手からも精神的な支えとして絶大な存在感を発揮。 |
| 特に番組初登場の若手歌手は、随分芳村に救われたことが多かったとされ、それだけにいまでは「伝説」とも言えるエピソードも数多く存在する。 |
| 工藤静香は番組にソロ歌手として初出演した際(1988年1月20日放送)、芳村から「静香ちゃん、大丈夫よ~!」と後から肩を叩かれ、それまであった極度の緊張感から一瞬にして解放され、すんなりと歌に入り込めた、と回顧している。 |
| 石野真子や榊原郁恵、未唯らも、当時どの番組、どのテレビ司会者も「アイドル」としてしか扱ってくれなかった中で、唯一、一人の大人の女性として接してくれたのが芳村であった、と感謝の念を述べている。 |
| また、アン・ルイスが出産準備のために海外から電話で当時夫であった桑名正博の応援として出演した際、初めての出産を控え不安がるアンに一児の母としての視点から真剣に励ましたりする(1981年3月23日放送)など、キャリアを積み、番組にも常連として顔を出していたアーティストからも番組内外を問わず、色々と相談を持ちかけられることも多かったようである。 |
| 河合奈保子も芳村にかわいがられたひとりで、芳村が彼女の衣装を特別にコーディネートしたり、自分がかつて番組内で着用したことのある衣装を河合にプレゼントするなどしていたことから、芳村の「夜のヒットスタジオ」勇退の際には、テレビの本番ではほとんど泣いたことがない河合が、人目も憚らず号泣している。 |
| また、高田みづえとの親交が深く、彼女の結婚披露宴でも来賓代表として祝辞を述べているほか、芳村が番組を勇退する際にも、引退後にも関わらず、夫の松ヶ根親方と共に特別出演し、花束を贈呈した。 |
| 西城秀樹、小柳ルミ子、石野真子、郷ひろみ、中森明菜、田原俊彦らはヒットスタジオの本番が終ると、芳村によく高級なレストランや料亭に連れて行ってもらい、そこで芳村から大人としての社交術を教わったり、個人的な事柄につきアドバイスを受けていたという。 |
| 西城は後年テレビ番組のインタビューで、「真理さんからは「真の大人の世界」というものを数多く学んだ」とそのときのエピソードを交えて敬意を表するコメントを述べている。 |
| 「夜ヒット」での共演が縁で夫と共に古舘伊知郎の結婚式の仲人を務めた。 |
| 婚約会見のとき、すでに古舘の妻は一人目の子供を身ごもっており、腹部が膨らんでいることを記者が質問した際、芳村は「こういう形のドレスなんです」と述べ夫人を庇った。 |
| 芳村の奇抜なファッションもまた「夜ヒット」の代名詞となっていたが、この点、古舘伊知郎はその雰囲気を「ひとりコットンクラブ」という絶妙の喩で表現した。 |
| 芳村の服装を男性司会者が揶揄したりするパターンは初代の相手役・前田武彦の時代からあり(マエタケは化粧をした顔と落とした後の素顔の落差から「ナマズのおばさん」という渾名を付けた)、特に3代目の相手役・井上順は、芳村がパンク風のヘアスタイルをすれば、「髪型を見れば今日の東京が風が強かったのがよく分かります」、一風変わったメイクをすれば「蜘蛛巣城」、マントのような服装の時には「月光仮面」、その他、着物姿のときには「月見草に(芳村の顔を指差して)団子」、などなど毎週必ず番組内で衣装に茶化していた。 |
| 古舘の「夜ヒット」司会初回の際、相当の緊張状態に達していた古舘をフォローするため、芳村は「時間が経てば終わるのよ」という言葉をかけた。 |
| 女性名司会者として知られる彼女であるが、「シーラE」を「シーナ・イーストン」と間違ったり、アルバムの収録曲を「新曲」と紹介して後に訂正したり、高橋幸宏や中川勝彦の衣装を見て「中退ファッション」と突っ込んだり(あくまでもこれは両者間の親交を前提とした発言であるが)と、時にはトチリや微々たる失言もあった。 |
| 古舘伊知郎司会初回の1985年10月2日放送の「夜ヒット」で、アン・ルイスが事務所の後輩である吉川晃司と「本番」まがいの過激なパフォーマンスを歌の最中に展開。 |
| この歌が終った後に芳村が発した一声は時間帯がゴールデンタイムであり、未成年者も少なからず番組を視聴していることを考慮して「かわいい!」であった。 |
| 「夜ヒット」の生本番の日と「オレたちひょうきん族」の収録日が同じ水曜日であった頃、明石家さんまはフジテレビのメイク室で「ひょうきん族」内でのキャラクター「パーデンネン」の扮装をしているときに、芳村に「さんまちゃん、派手ね~」とよく言われ、「それはこちらがいう台詞ですよ」などと返していたという。 |
| 「夜のヒットスタジオ」降板の際の記者会見時、「これからは家庭の人としての時間を持ちたい」という言葉を残して番組降板のみならず芸能活動からのセミリタイヤ宣言も同時に行う。 |
| 一例として、同番組に光GENJIが初出演したとき、芳村の控室を訪れた同グループのメンバーは彼女に「ちわーす。 |
| 」というかなり軽い挨拶をしたり、他のタレントでも同様の行為がなされ、確実にタレントたちの価値観が変わりつつあることを感じ取り、「もう芸能界は自分がいられる場所ではない」と密かに悟っていたと言われている。 |
| 1970年代、高級食材であるフォアグラが日本の市場にも出回るようになった頃、これを食べ過ぎて窒息寸前になり、それ以来フォアグラが苦手になってしまった。 |
| ほかにもレバーも苦手らしく、「料理天国」のときにレバーの料理が出たときは彼女のところだけなぜか皿がない状態になっているのが何度か確認されている。 |
| 現・民主党参議院議員の蓮舫がキャスター・司会者業をしていた頃、「料理天国」のゲストとして招かれ、自分が司会業をやるきっかけとなったタレントとして芳村の名を挙げて以降、蓮舫とは親しい間柄にある。 |
| 「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!」初期の頃は準レギュラーとして、親交のある玉村豊男、四方義朗(デザイナー)と何週か交替で出演していた。 |
| 故障の原因は不明だが、機械の単なる内部トラブルなのか、芳村が自分の「怪力」で機械を壊したのかと、野沢直子ら共演者から(ギャグの一環ではあるが)議論の対象になったことがある。 |
| 1988年4月28日放送の「笑っていいとも!」でテレフォンショッキングのゲストとして登場した際、その時着用していたハイヒールが床の隙間に挟まってしまい身動きが取れなくなってしまうというハプニングが起きたことがある。 |
| 因みにこの際に芳村が「お友達」として紹介したのが田原俊彦であり、翌4月29日放送の田原がゲスト出演した「いいとも!」が番組最高視聴率、27.9%を記録している。 |
| テレビ番組において、彼女が司会者として注目される以前では、スタイリストが各タレント毎に付くというケースは全くと言っていいほどなかったが、この慣例を一般化させたのも彼女の存在によるところが大きい。 |
| とりわけ「夜のヒットスタジオ」で毎回芳村が着用していた服装は、「シャネル」に始まり、クリッツァ、ジャンポール・ゴルティエ、イブ・サン・ローラン、マーガレット・ハウエル、イッセイ・ミヤケ(三宅一生)等、当時の時代の先端をゆく一流ブランドのものが多く(特に1980年代になり、海外ブランドが日本でもショップを次々とオープンしていく頃になるとその傾向が強かった)、これに触発されて出演女優や歌手たちが次々とスタイリストやファッションの専門家の力を借りて、独自のファッション観を身につけていくようになっていったようである。 |
| 当時の「夜ヒット」で特に女性歌手が出演する場合にはまず「芳村真理より派手にすること」が命題とされ、芳村よりファッションについて「お墨付き」をもらうことが一つのステータスともなっており、特に芳村より衣装コーディネイトのセンスを高く評価されていた中森明菜(中森は当時、衣装の選定・コーディネイト等を全て自ら行うことで知られていた)は、芳村勇退直後の「夜ヒット」で「この前、真理さんに会ったら『最近、オシャレしてる?』といわれた。 |