| 少年時代には横浜大洋ホエールズ友の会に入っていた。 |
| 鎌倉学園高ではエースとして活躍し、1987年には神奈川県予選ベスト4。 |
| 駒澤大学進学後は東都大学リーグで活躍し、1990年秋季には7勝1敗、防御率0.94、71奪三振の活躍で最優秀投手、ベストナイン(投手)。 |
| 1991年秋季では5勝1敗で優勝に貢献し、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナイン(投手)を獲得し、IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選出されている。 |
| リーグ通算48試合登板し20勝10敗、防御率1.76、223奪三振。 |
| 大学時代は、日大の落合英二とはライバル関係にあった。 |
| また大学時代、のちにプロで同僚となる青学大の小久保裕紀からホームランを打ったことがある。 |
| 1991年のドラフト会議ではダイエー、巨人、広島、西武と4球団の1位指名が競合した。 |
| 抽選の結果交渉権はダイエーが獲得。 |
| このとき在京のセ・リーグ球団を希望していた若田部が会見の席で用意されていたアイスティーを一気飲みしたシーンは語り草になっている。 |
| ダイエーとの推定契約金は当時の史上最高となる1億3,000万円とも言われた。 |
| 1年目から先発の軸として活躍し、1992年10月1日、平和台球場の最終試合では野茂英雄(近鉄)との投げ合いを制して1-0の完封勝ちを収めている。 |
| 新人王は高村祐(近鉄)に譲ったが、片岡篤史(日本ハム)とともにパ・リーグ会長特別表彰を受けている。 |
| 翌1993年には、同じく近鉄戦でホークス史上初の福岡ドーム公式戦初勝利投手にもなった。 |
| なお、その前日には野茂が1-0の完封で福岡ドーム公式戦勝利投手第1号となっている。 |
| 1994年に10勝を挙げたあと数年間の不振に苦しむが、尾花高夫の指導の下1999年には甦り、ダイエーホークス初のリーグ優勝に貢献。 |
| 翌2000年にもチーム最多タイの9勝でリーグ2連覇に貢献した。 |
| リーグ連覇を目指していた2000年の8月24日、西武ドームでの西武戦で3タテを阻止する1-0の完封勝利を収め、その後の逆転優勝に繋げている。 |
| ヒーローインタビューでは、「みんなの気持ちを球に込めて僕が代表して投げました」とコメントした。 |
| 2002年には10勝のうち5勝を西武から挙げた。 |
| チームメイトだった藤井将雄とは仲が良く、2000年のリーグ連覇達成時には、藤井の背番号15とネームがプリントされたハリーホーク人形(通称「藤井ハリー」)を持って胴上げに参加し、入院中の藤井に捧げた。 |
| 藤井本人はこれを見て涙が止まらなかったという。 |
| この藤井ハリーは各メディアでも取り上げられた。 |
| 若田部は祝賀会で「一番ここにいて欲しかったのは藤井さん」と語っており、亡くなった直後には「これからは藤井さんにあまり頼り過ぎないように、藤井さんに心配をかけないように頑張らなきゃいけない」と話している。 |
| またこの年の「球団MVP授賞式」では、若田部が藤井ハリーを抱えて藤井の代役を務めた。 |
| 2002年は開幕一軍から漏れたが、昇格後には先発の柱として活躍し10勝。 |
| 同年のオールスターゲームにも初出場した。 |
| そのオフFA宣言し、横浜ベイスターズに移籍した。 |
| 2004年に佐々木主浩が横浜に復帰し、吉見祐治が背番号を21に変更したのを受け、ダイエー時代と同じ14に変更。 |
| 2005年、10月横浜から戦力外通告を受け引退した。 |
| プロでは一度も「押し出し」が無かった。 |
| 2006年からは、JSPORTS・TOKYOMX・TVQ九州放送および日刊スポーツの解説者。 |
| また、KBCテレビ「アサデス。 |
| 九州・山口」月曜コーナー『主婦の鷹』にコメンテーターとして不定期出演中。 |
| 」で共演しているおすぎからは「ホークスイケメン選手の元祖」と言われている。 |
| 妻はかつて福岡でローカルタレントとして活動していた徳丸佳代。 |
| 現在でも時々テレビ出演することがある。 |