| 狄道県長であった苻登は、身の危険を察知して枹罕(甘粛省臨夏市)へ逃れた。 |
| 当時枹罕には、前秦の中核である氐族の大軍団が駐屯しており、ここを守備する河州刺史は絶大な権力を保持していた。 |
| 386年、河州刺史毛興は氐族軍団を率いて隴西平定に出陣したが、軍の支持を失い殺害され、衛平が代わって推戴されたが間もなく支持を失い、皇族との理由より苻登が推戴された。 |
| こうして苻登は氐族軍団の頭領となった。 |
| 386年、苻堅の後を継いだ4代皇帝苻丕は国内が混乱する中、苻登に征西大将軍・南安王を授位し、同年に西燕との戦いで敗死した。 |
| 苻丕の皇太子苻懿らは遠く苻登を頼って逃れたが、枹罕氐軍は苻懿を廃して苻登を皇帝に擁立、11月に苻登は皇帝に即位した。 |
| 苻登は皇后に氐族の毛氏(毛興の娘)を迎えて軍団の結束を強め、兵に「死して休む」と入れ墨を施して苻堅を殺した羌族の後秦への復讐を誓った。 |
| 同時に杏城の苻纂・苻師奴兄弟、天水の竇衝、後仇池の楊定、高平の没弈干らと連携し、後秦包囲網を結成した。 |
| 枹罕の氐族大軍団を率いた苻登は、386年末から快進撃を続けた。 |
| 12月に徐嵩堡と胡空堡(前秦の仮都:387年9月-394年4月)の要害を占領、翌387年には涇陽・汧城・雍城を占領、389年には平涼を占領し、後秦を安定と長安の2城にまで追いつめた。 |
| しかし、苻登が滅羌校尉を設置すると各地の羌族は一斉に後秦に呼応し、前秦軍の戦線は膠着した。 |
| 387年から本拠を胡空堡に置いた苻登は、389年8月に安定攻略のため全軍を出動させた。 |
| ところが、後秦軍にがら空きになった大営を衝かれ、前秦は皇后・皇子・名将以下5万人を失う大損害を喫した(大界の戦い)。 |
| これ以後、苻登は単独で攻勢をかけることができなくなり、各地の前秦勢力との連携強化に専念した。 |
| 390年からは、苻登は局地戦では勝利を重ねるものの、後秦への離反する部下が続出し、次第に戦線が後退し始めた。 |
| 392年、高平の没弈干が後秦に降り、翌393年に天水の竇衝が自立すると、前秦の対後秦包囲網は完全に瓦解した。 |
| 苻登は各地で後秦に敗れ、もはや大局は決したかに見えた。 |
| 394年1月、後秦の姚萇が死去したの報を得た苻登は、残存する全軍を傾けて後秦との決戦に挑んだ。 |
| 翌2月、甘泉の諸堡を抜いて関中平原に進出すると、馬嵬の廃橋に駐屯した。 |
| しかし4月、苻登は尹緯率いる後秦軍に大敗し(廃橋の戦い)、雍城へ逃れるも兵を立て直すことができず、遂に平涼の馬毛山中に逃れた。 |
| 6月、苻登は単独での再起を諦め、敵対関係にあった西秦の乞伏乾帰に子の苻宗を人質として援軍を乞うた。 |
| しかし7月、援軍の到着前に後秦の姚興によって馬毛山は包囲され、苻登は僅かな兵で応戦したが、捕らえられ殺害された。 |
| 皇太子の苻崇は辛くも脱出できたが、苻登の死によって前秦勢力はほぼ潰えた。 |