| 中学卒業後、日本車輌製造に勤務する傍ら、1955年に貸本劇画誌「街」の新人コンクールで入賞してマンガ家デビューし、昼は工場で働きながら、「街」「顔」などの貸本劇画誌に短編を約60本発表。 |
| さいとうたかを、辰巳ヨシヒロのファンだったという。 |
| しかし漫画で生計を立てることは出来ず、22歳頃から1年ほどCMのコンテを描く仕事に従事し、さらに貸本漫画家仲間で、先に虫プロダクションに入っていた真崎守の誘いで、1964年に虫プロダクションへ入社。 |
| テレビアニメ『ジャングル大帝』でアニメーターへの転身を果たした。 |
| 虫プロダクションは1年ほどで退社して、1966年に作画スタジオ「ジャガード」を斎藤博ら仲間数人で発足。 |
| アニメについては、ジャガード時代に斎藤から多くを学んだと後に荒木は感謝の弁を述べている。 |
| ジャガードは、虫プロダクションの作品とともに東京ムービーの作品の作画も手がけて、荒木は楠部大吉郎作画監督の下で『巨人の星』の劇画タッチの作画に挑戦。 |
| 劇中の一つのクライマックスになる飛雄馬の大リーグボール1号を花形満が打ち返すパースを強調させたシーンの作画は語り草となった。 |
| 1970年から虫プロダクションで、杉野昭夫、金山明博との3人共同で『あしたのジョー』の作画監督を務めた。 |
| また、この年から『キックの鬼』『魔法のマコちゃん』で作画監督をしたのを手始めに東映動画作品にも参加するようになった。 |
| 1971年には友人とスタジオZを設立(後輩の金田伊功もここに在席)。 |
| 1973年にフリーになり、テレビアニメ『バビル2世』で荒木は初のキャラクターデザインを任された。 |
| これらは初期のキャラクターでは最も愛着が強いという。 |
| さらに東映動画では、1973年の『キューティーハニー』、1974年の『魔女っ子メグちゃん』、1975年の『少年徳川家康』『UFOロボグレンダイザー』、1977年の『惑星ロボダンガードA』と立て続けに東映動画作品のキャラクターデザインをして、荒木の名を印象付けた。 |
| 特に『惑星ロボダンガードA』の男声キャラクターのトニー・ハーケンは女性ファンの支持を得た。 |
| 1970年代末に始まったアニメブームで荒木を人気アニメーターの地位に押し上げたのは、これらの作品である。 |
| この間、1972年に倒産したジャガードに代わり、1974年に荒木プロダクションを設立。 |
| 設立時からのメンバーである姫野美智を片腕として、姫野の少女漫画的な華麗なタッチが荒木の作風に加わった。 |
| 1979年の東京ムービー作品『ベルサイユのばら』を終えると、荒木プロダクションは、1980年から同じく東京ムービーで、フランスとの合作作品『宇宙伝説ユリシーズ31』『ルパン8世』『ガジェット警部』『シャンソン・ノノ』『ヒースクリフ』を1983年まで手がけて、日本国内ではアニメファンに対して目立った仕事がなかった。 |
| フランスとの仕事ではソフトな演技を学び、後の仕事に役立ったという。 |
| 荒木伸吾のキャラクターの人気に再び火がついたのは1986年の車田正美原作の『聖闘士星矢』のテレビアニメ化による。 |
| 3年間にわたって放送され、自他ともに認める荒木伸吾の代表作となり、2000年代以降も続編を制作する人気シリーズとなった。 |
| 荒木は『リングにかけろ1』、OVA『風魔の小次郎』といった『聖闘士星矢』以外の車田正美作品のキャラクターデザインを行なっている。 |
| 1989年にはこの人気を背景に、荒木のオリジナルキャラクターデザインによるコンピュータゲーム『BURAI』が発売されたちなみに『BURAI』の原作・シナリオ等を手がけた飯島健男は自著『ゲーム業界白書』の中で、荒木の参加によってこれまでパソコンゲームに見向きもしなかった女性層に興味を持ってもらえ、発売前後のショップイベント等では珍しく女性ファンの姿を見る事ができたが、肝心のソフトの売り上げはそれまでの作品と比べて大差無かった(=荒木キャラに熱中する女性ファンは、ソフトを買うほど作品そのものには入れ込んでくれなかった)と当時を述懐している。 |
| ;近年の動向。 |
| 『聖闘士星矢』以降も東映動画作品を主としてキャラクターデザインを続けるが、作画監督を務めることは少なくなっている。 |
| 2010年8月には公式サイトをオープン(#外部リンク参照。 |
| 現在45年ぶり公式サイトの表記より。 |
| wikipediaでは1960年に漫画が発表されたとあるが、公式表記に基づき、そのまま記載しました。 |
| -->に作成中の漫画作品『Sourire』のサンプルページが数頁ほど公開されている。 |