| 初名は中村錦之助(なかむらきんのすけ)。 |
| 吉右衛門劇団立女形を父に持つ歌舞伎役者の御曹司で、女形・立役(男役)ともに務めて歌舞伎界にて役者修業を積んでいた。 |
| 特に女形として評価が高かったが、四男であり、歌舞伎界で主役級俳優を目指すのは困難な状況だった。 |
| そこへ当時美空ひばりを抱え、ひばりの相手役として若手男優を探していた新芸術プロが着目、錦之助を映画界にスカウトし、錦之助は転身を考え始める。 |
| しかしその状況を知った歌舞伎役者たちからは「映画転出は許さない」と抗議が殺到、当時の梨園では“役者たちに歌舞伎・映画両方での活動を許せば、映画で人気を得た若造たちに梨園の秩序をかき乱される”という危機感ともとれる見方が大勢であり、父時蔵は「中途半端はいけない。 |
| 映画界に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい。 |
| もし映画で失敗しても歌舞伎に戻ることは許さない」と錦之助に決断を迫ったといわれる。 |
| 結局錦之助は歌舞伎を断念する道を選び、東京歌舞伎座早朝若手興行の「学生歌舞伎」『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として梨園に別れを告げる。 |
| さらにその後、父自身も立女形の座を一族外のものに取られてしまい???、居場所を失い???劇団を辞めている。 |
| 父でさえそのような有様???なのだから、その子息で-->歌舞伎に残った兄達も、その後苦労をした。 |
| 長兄の二代目中村歌昇は病気で役者を廃業、本名の小川貴智雄でテレビ脚本家に転じたが、48歳で死去。 |
| 次兄の四代目中村時蔵は立女形としての才能に恵まれ将来を嘱望されたが、引っ張りだことなり睡眠薬への依存が増加、34歳のとき睡眠薬の過剰摂取事故で死去した。 |
| 次々兄の初代中村獅童は錦之助と弟の中村賀津雄が東映入りすると、自らも梨園を去って東映のプロデューサーとなり弟たちを背後から支えることに徹した。 |
| 以上のように波紋を呼んだ錦之助の映画転身であったが、転身を勧めてきたのが、この当時にすでに大スタアだった役者歌手・美空ひばりだったことも事態に負の要素となったといわれる(その証左に、錦之助は映画で名を成してから父時蔵を映画界に呼び寄せ、数本の映画に出演させたが、その際に父は特に歌舞伎をやめる必要はなかったことがあげられる)。 |
| 映画俳優の道を選んだ錦之助は、美空ひばりとの共演作(新芸術プロ作品『ひよどり草紙』)で映画デビューの後、新東宝を経て東映に移籍。 |
| 同社製作の映画『笛吹童子』に出演し、これの大ヒットにより一躍スターの座を手に入れた。 |
| 以後、大川橋蔵や東千代之介らと共に東映時代劇映画の看板スターとなり、日本映画界の全盛期を支えた大スターの一員となった。 |
| 『一心太助』シリーズと『宮本武蔵』シリーズは当たり役となり、特に武蔵役はライフワークとなった。 |
| その明るく気さくで豪快な性格から俳優仲間や裏方のスタッフなど、多くの人たちから「錦兄ィ」(きんにい)「錦ちゃん」と慕われ、親しまれた。 |
| レコード歌手としてもデビューし、「やくざ若衆」「いろは小唄」などの曲をリリースしている。 |
| 昭和30年代後半、テレビに人気を奪われ、映画産業が徐々に斜陽化の様相を呈するようになった頃から、時代を読むのに長けていた錦之助はテレビドラマへの進出を図り、1966年には東映内部の労働争議に巻き込まれた(東映俳優労働組合の委員長に就任したが、収められなかった)こともあって東映を退社。 |
| 1968年に「中村プロダクション」を設立し、本格的にテレビ時代劇の世界に進出し、高い評価を得る。 |
| この頃の出演ドラマとして、『子連れ狼』や『破れ傘刀舟悪人狩り』、『破れ奉行』、『長崎犯科帳』、『破れ新九郎』等がある。 |
| 1956年の小川家による地方巡業『お祭』『仮名手本忠臣蔵八段目道行旅路の嫁入』で舞台にも復帰。 |
| 毎年6月に東京・歌舞伎座で定期興行を打っていた。 |
| なお歌舞伎座での興行でありながら、錦之助の演目はほとんどが歌舞伎ではない新作時代劇であった。 |
| そして、歌舞伎であっても全てが明治以降に作られたいわゆる「新歌舞伎」であった。 |
| 本人も古典・伝統歌舞伎をやるつもりはなく、「(重の井)子別れなんてできねェよ」と言っていた。 |
| 映画界入り後に舞台をつとめた歌舞伎の演目は次のとおり。 |
| 『紅葉狩』(1971)。 |
| 真山青果『元禄忠臣蔵御浜御殿綱豊卿』(1972)。 |
| 真山青果『頼朝の死』(1973、1982)。 |
| 真山青果『新門辰五郎』(1976)。 |
| 岡本綺堂『番町皿屋敷』(1974)。 |
| 河竹黙阿弥『極付幡随長兵衛』(1980、1994)。 |
| 『お祭』(1956年地方巡業)。 |
| 『仮名手本忠臣蔵八段目道行旅路の嫁入』(1956年地方巡業、1994)。 |
| 復帰狂言『お祭』は、大向うの「待ってました!」掛け声の後に役者が「待っていたとはありがてえ」という、復帰にからめたお馴染みのもの。 |
| 『極付幡随長兵衛』は明治に作られた戯曲であるが、河竹黙阿弥の作品であるために例外的に「新歌舞伎」とは呼ばない。 |
| -->『道行旅路の嫁入』は本人は「ごちそう」(特別出演)として一瞬登場するだけである。 |
| なお、歌手として「錦ちゃん祭り」というライブ・イベントを各地で開催している。 |
| 1971年10月、歌舞伎座の三代目中村時蔵十三回忌追善興行で「小川家」で一門をなすことを宣言し、屋号を萬屋に、定紋を桐蝶に改めた。 |
| 翌1972年に自身の芸名も中村錦之助から「萬屋錦之介」と改めた。 |
| この際、名を占い(姓名判断)により「錦之助」を「錦之介」と変えている。 |
| この年前後から、舞台公演とテレビ時代劇が主な活動となった。 |
| 1982年、牧野省三賞受賞。 |
| 1982年、中村プロダクションが倒産し、莫大な借金を抱え、さらに、歌舞伎公演の最中に倒れ、入院し、重症筋無力症と診断され、さらに同年8月には胸腺腫摘出手術をし、同年11月退院。 |
| 翌1983年に重症筋無力症を克服した。 |
| 1990年、三男の晃廣が事故死。 |
| 右目角膜剥離を発病。 |
| 芸能人としては大成功を収めたが、私生活では、三度の結婚と二度の離婚など、さまざまな災難に巻き込まれた。 |
| 1996年、長年の芸能活動を文化庁から表彰される。 |
| 同年咽頭癌を発症し、NHK大河ドラマ毛利元就の尼子経久役を降板した。 |
| 1997年3月10日午後2時41分肺炎ため千葉県柏市内の病院で死去。 |