| 董和は赴任した地域において法を厳格にし、自分自身も倹約に努めたため、贅沢に乱れた風俗が引き締まり、法に違反する行為がなくなったという。 |
| 地域の有力らは董和のやり方を嫌い、劉璋に董和を遠ざけるよう進言したため、董和は巴東の属国都尉に転任が決まった。 |
| しかし、領民は董和を慕っていたため、留任の嘆願をし、嘆願者は数1000人にもなったため、転任は2年間保留となったという。 |
| 董和は後に益州の太守に昇格となった。 |
| 清潔さと倹約ぶりは以前と変わらなかったという。 |
| 異民族とも協調したため、南方はよく治まった。 |
| 郡の督郵の李恢のおばの夫である爨習が法律違反を犯したとき、李恢は連座して免職となるところであったが、益州太守の董和は爨習が地元で勢力のある豪族出身であることを理由に、罪を許し辞職を認めなかったという。 |
| 後に董和は李恢を州に推挙している(『三国志』蜀志「李恢伝」)。 |
| 劉備が益州に入ると、董和は掌軍中郎将に任じられた。 |
| 軍師将軍の諸葛亮と共に左将軍大司馬の幕府の事務を担当したが、董和は仕事の無駄を省くと共に諸葛亮とも親しく付き合った。 |
| 董和は内外の重職を務めて20年以上となったが、家には余財がなかったという。 |
| 後に丞相となった諸葛亮は董和のことを追慕し、部下の役人に董和の仕事ぶりを見習うよう訓示した。 |
| 子の董允は、父に劣らず優秀で、後に宦官の黄皓による専横を抑えるなど活躍した人物だが、董和は許靖の子の葬儀での一件から子の董允よりも費禕を有能であると考えるようになったという(『三国志』蜀志「費禕伝」)。 |