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董承
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200年
後漢
横山光輝 三国志
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プロフィール
董承とは
洛陽帰還行
政争の果ての最期
物語中の董承
参考文献
董承(とうしょう、?-建安5年(200年))は、中国の後漢末期の武将。素性は諸説があるが、一般的には
献帝
の祖母の董太后の親族(甥)とされる。しかし、後世の史家からはその親族関係は疑問であると指摘されている。娘は
献帝
の貴人(側室)。
洛陽帰還行
董承は、元々は
董卓
の娘婿である
牛輔
の部曲である『後漢書』列伝62
董卓
伝に「(
董卓
の女婿の)
牛輔
の部曲(武将)である」と記されている。
董卓
死後の長安における権力争いのなかで、具体的な事跡は不明だが、董承も身を置いていたと見られる。
興平2年(195年)7月、張済の仲介により、李、郭汜ら旧
董卓
配下の将軍たちの間で和解が成立して、
献帝
は洛陽へ帰還することになり、この時、董承は安集将軍に任命された。
帰途の同年11月、
車騎将軍
となった郭汜が謀反して
献帝
を奪おうとし、後将軍楊定・興義将軍
楊奉
はこれを撃ち破った。
郭汜は、後悔して
献帝
を奪い返そうとする李と合流する。
その後、
献帝
一行
が華陰に至ると、同地を統治していた寧輯将軍段煨が一行を出迎え、段煨は
献帝
を自陣に迎え入れようとする。
しかし、段煨と元々仲が悪かった楊定、その友人の侍中輯は反対し、董承も楊定に与して「郭汜の軍が段煨の兵営に入りました」と
献帝
に讒言したため、ついに
一行
は華陰を離れることになった。
なお、段煨には、
献帝
を独占しようという野心は無かった。
この後、段煨と交戦状態になった楊定は、追撃してきた李・郭にまで挟撃され、進退窮まって荊州へ逃げている『後漢書』
董卓
伝本伝、同伝注袁宏『後漢紀』。
その後、票騎将軍(驃騎将軍)張済も、董承・
楊奉
と対立の末に叛逆して、李・郭軍に加わる。
董承・
楊奉
らは、李・郭・張連合軍と東澗で戦ったが敗北した。
それでも曹陽澗まで至ったところで、董承は
楊奉
と共に、白波帥の胡才、李楽、
韓暹
、さらには南匈奴の左賢王
去卑
に呼びかけ、これらを援軍として得て李・郭・張軍を破る。
しかしその翌月、執拗に追撃してきた李・郭・張軍に、董承・
楊奉
らはまたしても敗れた。
水路を使って逃げる途中、多くの官人たちが船にすがり付いてきたが、董承は矛でこれを撃ち払い、官人たちの切られた手指が船中に転がった。
献帝
一行
はわずか数十人となってしまったが、先行していた李楽や河内太守
張楊
、河東太守
王邑
らの救援のおかげで、何とか安邑まで逃れた。
政争の果ての最期
建安元年(196年)1月、
献帝
を迎え入れようとした兗州牧曹操が、従弟の
曹洪
に兵を与えて派遣してきた。
衛将軍正確な任命時期は不明。
董承は、
袁術
の将萇奴と共に要害を守備し、
曹洪
の進軍を阻んだ『三国志』魏書1
武帝
紀。
董承は
張楊
を頼って逃れ、その
張楊
の指示により、董承は洛陽へ先行して向かい
宮殿
を修繕した。
同年7月、
献帝
はついに洛陽に到着し、董承は
韓暹
と共に宿衛の任に就いた。
しかし、
韓暹
の専横を恐れた董承は、密かに曹操を召し寄せ、その威を借りて
韓暹
・
楊奉
・
張楊
らを追い落とすことに成功している。
同年8月、董承は列侯に封じられた。
建安4年(199年)3月、董承は
車騎将軍
に任命され、府を開いた。
董承は、次第に権力を強大化させる曹操を恐れ、同志
王子服
、呉碩、呉子蘭子蘭は字であると思われるが、このクーデターの時にしか名が見られず、どういう人物だったのかという略歴も現在のところは不詳である。
、輯、劉備などを集めてクーデターを起こそうとした。
しかし建安5年(200年)正月、計画は事前に発覚し、董承一族やその一派は捕らえられて処刑された。
彼の娘の董貴人も妊娠中だったが、それでも曹操は彼女を殺した。
物語中の董承
小説『三国志演義』では医師の吉平とのやり取りと、召使との争いから計画が外部に洩れるという筋書きが追加されている。
また、事件から20年以上後に、病床の床に伏した曹操を、
亡霊
となった董承らが枕元に立ち苦しめたという逸話が脚色されている。
なお、董承の忠臣としての性格を強調付けられるためか、董承の出身母体や洛陽帰還時の政争等について、『演義』では欠落している部分が多い。
特に、すがり付く官人たちの手指を切り払って脱出した史実のくだりに至っては、『演義』では李楽の仕業に置き換えられている。
参考文献
『後漢書』本紀9孝
献帝
紀。
同列伝62
董卓
伝。
『三国志』魏書1
武帝
紀。
同魏書6
董卓
伝、付・李郭汜伝。
同蜀書2先主伝。
『三国演義』。
盧弼『三国志集解』古籍出版社、1957年。
今鷹真
・
井波律子
『三国志正史1』ちくま学芸文庫、1992年。
董承 - Wikipedia
より要約
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