| 家臣を大切にし、また茶湯にも興味を示して利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており(千利休の死後、その子息・少庵は氏郷の許で蟄居している)、諸大名からの人望が厚く、風流の利発人と評される。 |
| また和歌にも秀でており、会津から文禄の役に参陣途上、近江国武佐にて故郷日野を偲んで詠んだ歌「思ひきや人の行方ぞ定めなき我が故郷をよそに見んとは」が有名。 |
| またキリシタン大名でもある。 |
| 武辺談義や怪談など、話好きであったといわれる。 |
| 奇癖として有功の家臣に蒲生姓を乱発し、家中に稀少なるべき同名衆を大量生産し、前田利家にたしなめられている。 |
| 蒲生家中に蒲生姓の家臣が多いのはこのことによる(蒲生頼郷・蒲生郷舎など)。 |
| また、高山右近とも親交があったためにキリシタンとなり、レオンという洗礼名を持っていた。 |
| ローマにも度々使いを送り、時のローマ教皇から感謝の手紙を受けている。 |
| このほか、台湾に出兵したという逸話もある。 |
| 松坂時代、日野から多くの商人や職人を引き連れて松坂の街づくりを推進したが、会津転封により完成を見届けることは出来ず、あとに入ってきた服部一忠、古田重勝に引き継がれた。 |
| 会津でも日野や松坂から多くの商人や職人を連れ、会津塗などの発展に力を尽くした。 |
| なお、三越の創始者である三井高利の三井家は、日野から松阪に移った際呼び寄せられた商家の一つであり、氏郷会津移封の際に誘いを断って松阪に残った家である。 |
| ただし、三井家自体は日野出身ではない。 |
| 『常山紀談』には、陸奥92万石を与えられたとき、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。 |
| 小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」と激しく嘆いたと言われる(因みに徳川家康はこれとは正反対の発言をし、関東に移っている)。 |
| 戦国時代三大美少年のひとり名古屋山三郎を小姓として寵愛したことも、よく知られている。 |
| 奥州転封後に、旧領主の伊達政宗から16歳の清十郎という若い刺客を送られた。 |
| だが関所で伊達家との通信文が見つかりこの刺客は牢に繋がれたが、「伊達に対する忠義、天晴れなり」と刺客を解放したとの逸話が残る(『名将言行録』)。 |
| 織田信長は人質としてやってきた氏郷を見て一目でその実力と才能を見抜き、娘の冬姫を与えることを約束したという。 |
| 『氏郷記』では「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。 |
| 我婿にせん」と述べたという記述がある。 |
| 賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の寄騎であった佐久間盛政の弟の佐久間安政・勝之兄弟が氏郷との対面の際に畳の縁に躓いてしまう失態を演じてしまった。 |
| この際に傍にいた小姓衆がその様を笑うと、氏郷は「お前達は畳の上での勤めが一番であろうが、彼らは戦での働きが一番なのだ。 |
| 笑うなどもっての外」と嚇怒して、特に二人の家臣に恥をかかせなかった。 |
| 「蒲生家では戦場に常に鯰尾の銀兜が先頭にある」という逸話が語られるほど大将としては珍しく自ら陣頭に立って槍を奮う大名であり、自らが挙げた武功の逸話も多い。 |
| 大崎・葛西一揆の鎮圧に向かうなか、伊達政宗から茶の湯に誘われた。 |
| 蒲生家臣らはこれを政宗の、氏郷に毒入り茶を飲ませ殺す――謀略と判断し、氏郷に茶会へは行かないようにと制止した。 |
| だが氏郷は「ここで逃げるは恥」と政宗の陣へ向かい、堂々と茶を飲み、気概を見せた。 |
| 一説にはこの茶には毒が入っていたともされているが、氏郷は予め解毒薬を飲んでおり、政宗の謀殺を避けたという。 |
| 氏郷は月に一度家臣を全員集めて、自らの屋敷で会議を行い、この時の会議は「怨まず、怒らず」が約束事となっており、氏郷自らが風呂を沸かしたり、料理を振舞ったと言う。 |
| 秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れ、会津92万石に移した際、「松島侍従(氏郷)を上方に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたと伝わる(『名将言行録』)。 |
| 氏郷は天下に対する大望を持っていたとされ、あるとき側近を集めて秀吉亡き後の天下人が誰になるかを語った。 |
| 血統や年齢での順序ならば秀吉の甥で養子の秀次であるが、氏郷は秀次を「彼の愚人に従ふ者誰かあらん」と酷評した。 |
| そこで関東で255万石の大領を支配する徳川家康の名を出すと、「彼の人は吝嗇に過ぎる。 |
| 天下を得(る)べき人にあらず」と評した。 |
| そこで次に加賀で家康に次ぐ実力者である前田利家の名を出すと、氏郷はようやく頷いた。 |
| そして「加賀少将(利家)は御高齢。 |
| もし(利家が天下を)得ずば、我が得るべし」と語ったという(『老人雑話』)。 |
| しかし氏郷は秀次・利家・家康の3人よりも先に早世した。 |
| 氏郷は家臣をとても大切にする人物だったと伝えられており、それに関する逸話が多い。 |
| あるとき、西村某という家臣が軍令違反を犯しながらも武功を立てた。 |
| しかし氏郷は功を認めながらも軍令に違反したとして西村を家中から追放した。 |
| だが西村は氏郷を尊敬しており、しばらくして氏郷に帰参を願い出た。 |
| 氏郷は帰参の条件として「わしと相撲を取れ」と言い出した。 |
| だが氏郷は怒らずむしろ笑いながら「お前は浪人している間に根性が卑しくなっているのではないかと思っていたが、どうやら昔のままのようでよかった」と帰参を許したという。 |
| 氏郷は家臣の推挙を受けて側近に取り立てたが、数日後には解雇した。 |
| だが玉川は氏郷に解雇された理由を悟らずに他家でも同じように振舞って解雇されたという。 |
| 合戦のとき氏郷は「指揮者・武将だからといって後方にいて家臣に命令を出すだけでは駄目である。 |
| のちに会津に大幅に加増されて移封されたとき、家臣団に対して「今までお前たちには苦労をかけた。 |
| 手柄を立てた家臣がおり、その家臣の手柄が俸禄だけで優遇できなくなると、氏郷は休日にその家臣を自らの屋敷に呼んでご馳走と風呂でもてなした。 |
| 氏郷は農業より商業保護に熱心であり、伊勢や会津など移封された先々で近江商人を招いて商業発展に尽力した。 |