| 蜀の使者の張奉(『江表伝』によると費禕)が呉を訪ねたとき、漢字によるこじ付けの論法で闞沢と呉を笑いものにしたことがあった。 |
| それに対して薛綜は、その使者の論法を逆手にとり機智に富んだ反論をし、呉の群臣を喜ばせ、張奉を辱めた。 |
| 長年交州の刺史を務めた呂岱が中央に戻ることになったとき、薛綜は交州の事情を報告するため上疏し、後任者の用途に役立てた。 |
| この上疏文は正史に収録され、士燮や劉表、呉巨などの動向や士氏の滅亡、地元の民心の様子を記しており、後漢末期から三国時代初期の交州の様子を知る資料として貴重である。 |
| 231年、建昌侯、鎮軍大将軍として幕府をもっていた孫慮に招かれ、長史に任命された。 |
| 薛綜は書物を与えられ、自由に学問をすることができた。 |
| 孫慮が亡くなると、中央に戻り賊曹尚書、尚書僕射となった。 |
| 遼東の公孫淵の態度に激怒した孫権は遼東遠征を計画するが、薛綜はこれを諌め、遠征は中止された。 |
| あるとき孫権は薛綜にこれまでとは全く新しい祝詞を短期間で書き上げるよう命令したが、薛綜は何とかこれを果たした。 |
| さらに孫権は三篇一組とするため、さらに二篇の祝詞を書き上げるよう命令したが、薛綜はこれもやりとげた。 |
| 三篇とも立派な出来であり、称賛された。 |
| 240年に選曹尚書となった。 |
| このとき、一時は固辞し、顧雍の孫の顧譚を推挙したという(「顧雍伝付顧譚伝」)。 |
| 242年には太子少傅も加えられ、皇太子孫和の補佐役を任された。 |
| 『呉書』によると、孫権は紫色の綬と嚢を固辞する薛綜に対し与えることを願い出たという。 |
| 243年の春に死去した。 |
| 数万言の詩や賦、議論を残しており、『私載』としてまとめられた。 |
| 他に『五宗図述』を著し、また、後漢の張衡の「二京の賦」に対する注釈である「二京解」は、『文選』の李善注に取り入れられ、今に伝わる。 |
| 陳寿は薛綜を深い学識と主君に対する適切な諫言をおこなった、呉にとっての有能な臣下であると評価している。 |
| 小説『三国志演義』では赤壁の戦いにおいて孫権に対し曹操への降伏を主張する家臣の一人として登場し、諸葛亮に論戦を挑むが、喝破されている。 |
| zh-classical:薛綜。 |