| ファイル:TokyoUniversityoftheArts.JPG|250px|thumb|東京芸術大学は東京音楽学校の後身にあたる。 |
| (画像は上野キャンパス)。 |
| 慶應義塾普通部を卒業後の1929年(昭和4年)4月、当時日本で唯一の官立の音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(現・東京藝術大学音楽部)に入学。 |
| 当時は「歌舞音曲は婦女子のもの」という風潮が強く、声楽部に入学した学生の中で男は藤山一人であった。 |
| 入学試験の口頭試問で音楽をやる理由を問われた藤山は「オペラ歌手を目指します」と答えた池井1997、39-41頁。 |
| 藤山は予科声楽科で30人中15番の成績を修め、本科に進学した池井1997、44-45頁。 |
| 1931年(昭和6年)2月には「学友演奏会」(成績優秀者による演奏会。 |
| 土曜演奏会ともに出演し、歌劇『ファウスト』より「此の手を取り手よ」、歌劇『リゴレット』より「美しの乙女よ」の四重唱にバリトンで独唱『東京藝術大学百演奏会編』、115頁。 |
| するなど順風満帆の学生生活を送っていたが、音楽学校生活進学後間もなく世界恐慌の煽りを受けた昭和恐慌の影響で実家のモスリン問屋の経営が傾き、3万8000円の借金を抱え廃業した私の履歴書、186頁。 |
| 藤山は家計を助けようと写譜のアルバイトを始めたが収入が少なく、レコードの吹込みの仕事を始めるようになった。 |
| これは校外演奏を禁止した学則58条に違反する行為であったかつて佐藤千夜子が学則58条違反により退学処分を受けたことがあった。 |
| ため、「藤山一郎」の変名を用いることにした。 |
| 名前の由来は、上野のパン屋・「永藤」の息子で親友・永藤秀雄(慶応商工)の名を使って藤永にし、一郎と続け、「藤永一郎」としたが、本名である増永の「永」が入ることで正体がばれることを恐れた。 |
| そこで「富士山」なら日本一でいこうと「永」を「山」にして、芸名を藤山一郎にした。 |
| この変名はわずか5分のうちに生まれた藤山一郎以外にも花房俊夫・井上静雄・南一郎・藤村二郎・田垣宣文・藤井龍男などの変名を用いた。 |
| 日光の華厳の滝に身を投げた一高生にちなんで藤村操という名前も考えたが、文学青年の名前は似合わないと却下された。 |
| 池井1997、49-51頁。 |
| 藤山1986、48-54頁。 |
| 藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ藤山1986、55頁。 |
| 代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。 |
| 塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は植民地であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった塩沢1991、36頁。 |
| 菊池2008、33-36頁。 |
| 「SPレコード歌謡産業発達史」『メディア史研究14』、メディア史研究会編、2003年、91-93頁。 |
| 憂鬱さとモダニズムが同居する世相を反映させようとする古賀の意図を実現させた池井1997、55-57頁。 |
| 同じく1931年に発売された古賀作曲の『丘を越えて』もヒットした。 |
| 『丘を越えて』はクルーン唱法ではなく、「マイクから相当離れた位置で、メリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーに、声量を落とさないで、しかも溢れさせないように歌う」歌唱表現で、古賀メロディーの青春を高らかに歌いあげている。 |
| 藤山1985、82頁。 |
| 歌のヒットと同時に藤山一郎という歌手への注目が巷間で高まり、世間の関心が集まるようにもなった。 |
| 古賀と関係の深かった明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にゲスト出演した藤山は舞台の袖から姿を隠して歌い、観客が不満を訴える騒ぎとなったこともある。 |
| 藤山は「先生は作曲をするなどして学校の外で金を稼いでいるのに、生徒が学費のために内職するのを責めるのは不公平だ」と反発したためあわや退学処分ということになった。 |
| しかしハイバリトンの声楽家として藤山を評価していたクラウス・プリングスハイムが退学に反対し、慶應義塾普通部時代から藤山をよく知る弘田龍太郎・大塚淳・梁田貞も学業成績の優秀さやアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることを理由に擁護に回った結果、今後のレコード吹込み禁止と停学1か月の処分に落ち着いた。 |
| 停学が解除されると藤山はレコードの吹込みをやめ、学業に専念した池井1997、63-69頁。 |
| 1932年(昭和7年)、藤山は東京音楽学校奏楽堂で上演された学校オペラ『デア・ヤーザーガー''DerJasager''(「はい」と言う者)』(クルト・ワイル作曲)の主役(テナーの少年役)を好演し(東京音楽学校は「風紀」を理由に舞台上演のオペラを禁止していたが、この上演のみ例外で舞台上演された)、日比谷公会堂でプリングスハイムの指揮でワーグナーのオペラ『ローエングリン』のソリストを務めている。 |