| 1989年6月22日、ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。 |
| 椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。 |
| その間、帝拳ジムでボクシングの練習にも取り組んだ。 |
| 1990年9月30日の越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。 |
| リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。 |
| この頃、プロレス界での部屋別制度を提唱、「ドラゴンボンバーズ」を結成(メンバーは越中、獣神サンダー・ライガー、飯塚孝之、ブラック・キャット、南海龍、ワイリー・テイラー)したが、軌道に乗ることはなかった。 |
| 同年12月26日、浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王者になった。 |
| 翌1991年3月21日、東京ドームでリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれる(ただしNWAの公式サイトには、歴代チャンピオンに藤波の記載あり)。 |
| 1993年8月7日、両国国技館で馳浩を破りG1CLIMAX優勝。 |
| その年1月から参戦し、新日勢を連破していた天龍源一郎と9月26日大阪城ホールで初対決。 |
| セコンドの馳の介入にクレームを付ける天龍の虚をついてグランド・コブラで勝利した。 |
| 1994年4月4日、広島グリーンアリーナで橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。 |
| 橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグランド・コブラで王座を奪取。 |
| 腰痛からの復帰以降、闘魂三銃士の台頭もあり、藤波は徐々に第一戦から退くようになる。 |
| 1995年10月27日、クラシックなプロ・レスリングを復活させるため独立興行「無我」を旗揚げ。 |
| イギリスのビリー・ライレージムと提携。 |
| 1998年4月4日の猪木引退・東京ドーム興行で佐々木健介を数年ぶりに見せるジャーマン・スープレックスで破りIWGPヘビー級王座を獲得。 |
| 師の引退に花を添えた。 |
| かねてから「ジャンボ鶴田選手と1回戦ってみたかった」と公言している。 |
| かつて、ジャイアント馬場と猪木の対戦が望まれた時期、猪木は何度も馬場に対戦を望んだが、馬場は「僕達の旬は過ぎているから」と拒否し、代わりにお互いの団体の次期エースである鶴田と藤波の対戦を申し出たり、当時全日本プロレスに参加権があって新日本プロレスには認められていなかったNWA世界ヘビー級のベルトの挑戦権を藤波に与えてもいい、などと発言したこともあった。 |
| だが、猪木は馬場との対戦に拘り続け、そして鶴田の死去もあり、ついに藤波は鶴田と対戦することはできなかった。 |
| 2003年から欠場が続いていたが、2005年3月26日に2年3か月ぶりに復帰し、5月のドーム大会でジャンボ鶴田の付き人を務めたことのあるNOAHの三沢光晴とタッグを組み、「楽しかった。 |
| 川田利明との初対決が実現するも敗れる。 |
| 試合後に握手し、川田は「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの一人であるから」とコメントを残す。 |
| 1999年から2004年まで新日本プロレス社長を務めた。 |
| 2006年6月30日付けで新日本プロレスを退団。 |
| その際に社員に挨拶に回ったが、ことごとく無視された、とインタビューで当時の様子を語った。 |
| 元新日本プロレスで藤波の愛弟子である西村修と田中秀和リングアナウンサーの新団体「無我ワールド・プロレスリング」の旗揚げ戦で第1試合に出場した。 |
| 2007年1月28日には約30年ぶりにグラン浜田と対戦した。 |
| 6月1日師匠であるアントニオ猪木と1年振りに会談したことが明らかとなり、その席で猪木が旗揚げするイノキ・ゲノム・フェデレーションへの協力を表明した。 |
| 9月9日、NOAH日本武道館で、三沢との夢のタッグ戦が実現(三沢、潮崎vs藤波、西村)。 |
| 2008年、団体名を『ドラディション』に変更した(無我の商標権を持つ西村が団体を離脱したため)。 |
| 2010年10月20日、長州力、初代タイガーマスクと共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。 |
| また、藤波と長州の1997年8月10日以来となる一騎打ちも決まった |