| 1988年シーズン終了後、王貞治が解任されたことを受け、務臺光雄読売新聞名誉会長から「老い先短い年寄りの願いをきいてくれ」と懇願され、監督に復帰。 |
| 前回同様、就任1年目でリーグ優勝を成し遂げると同年の日本シリーズで近鉄バファローズを下して日本一を達成。 |
| 翌1990年にもペナントを制し、リーグ2連覇を達成したものの、日本シリーズではまたも西武の前に敗れた。 |
| 監督業は1992年限りで勇退。 |
| 指導者として優れた人心掌握術・育成術を持っており、山本五十六の「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ」を座右の銘にしていた。 |
| 「誰だって怒られるよりは褒められた方が嬉しい。 |
| 選手だって同じだ」と語り、短気な性格にも関わらず、選手のやる気を起こさせるのが上手い「誉め上手」の監督であった。 |
| 事実、監督時代は選手を責めるコメントをほとんど言わなかった。 |
| ただし第2次監督時代、ごく親しい知人には「一刻も早く、このチームの性根を叩き直さなければ(自分の後)苦労することになる」と語り、危機感をあらわにしていた。 |
| 1990年の日本シリーズで西武相手に4連敗のストレート負けを喫した際には「監督がへぼだから負けたんです」と語り、選手を責める発言をしなかったことは一部から賞賛された。 |
| 巨人のコーチ時代には渡辺秀武を再生させ、第1次監督時代には江川卓・西本聖・定岡正二、第2次監督時代には槙原寛己・斎藤雅樹・桑田真澄の先発三本柱を確立させ、投手陣の整備をおこなった。 |
| また野手では、川相昌弘・緒方耕一の積極的な起用、駒田徳広・岡崎郁の“名脇役”としての確立等「磨けば光る逸材」を輝かせる事にかけては定評があった。 |
| この時、大久保は「この人のために、死んでもいい」と泣きながら肉を食べたエピソードがある。 |
| 守備に難のある選手をほとんど使わなかった広岡達朗や森祇晶と同じく「守りの野球」を掲げてはいたが、唯一長打を望める選手となっていたが故障を抱える原辰徳をサードからレフト(1989年-1991年)やファースト(1992年)へコンバートしたほか、捕手や外野手は、肩を一度壊した村田真一、キャッチングに難のある大久保博元、怪我の影響で守備に不安のある吉村禎章などを日替わりで起用した。 |
| また、ショートの川相以外の既存戦力を再構成し、内野守備を補強している。 |
| また、1989年はリーグ本塁打4位ながら1試合平均4得点をクリアしており、攻撃面にも隠れた手腕を発揮している。 |
| 犠打の世界記録を更新し、2006年まで現役を続けた川相昌弘も、藤田がレギュラーに抜擢した選手の一人である。 |
| 川相は藤田に強い恩義を感じており、藤田の死に際しては当時所属していた中日のキャンプ地の沖縄から休日を利用して帰京し、葬儀に出席している。 |
| 第1次監督時代(1981-1983年)のプロ野球中継平均年間視聴率は、1983年には27%に達した(27.1%ビデオリサーチ関東地区調べ。 |
| 監督時代の通算平均視聴率は、第1次監督時代は25.5%であり、第1次長嶋監督時代(1975-1980年)の23.2%、王監督時代(1984-1988年)の23.9%、第2次長嶋監督時代(1993-2001年)の20.0%よりも高かった。 |
| 第2次監督時代(1989-1992年)は1989・90年の独走状態での優勝と1991・1992年の低迷によって、視聴者の興味が薄れたことも影響し、19.9%で、ONが監督だった時期を下回った。 |
| 2度目の監督就任の際には、医者から「命の保障はない」と告げられていたという。 |
| 1990年頃から心臓病が悪化し(キャンプイン直後の1990年2月に発作で倒れたことがある)、ニトログリセリンを常備しながら采配を振っていた。 |
| 1991年に4位に転落したことで、病気の負担もあり辞任を決意していたが、正力オーナーの慰留で1992年も続投した。 |
| 慶應義塾大学出身であることや、そのスマートな外見や物腰のため、現役時代から『紳士』のイメージが強かった。 |
| 江川も当時を振り返って「自分が打ち込まれたとき、ベンチからマウンドに歩いてくるときの藤田監督は、鬼の形相で顔を真っ赤にして、本当に恐ろしかった」と語っている。 |
| また広岡達朗も著書の中で「藤田は歴代監督の中で一番門限が厳しかった。 |
| 日本シリーズでは、1989年は故障で槙原を欠きながらも7戦を戦い抜き勝利しているが、1990年は拙攻・拙守が重なり、黄金期の西武ライオンズにストレート負けを喫し「硬直化した先発起用に頼ったペナントの戦い方が仇となった」と指摘された。 |