| 300px|thumb|right|衣笠祥雄連続試合出場記録石碑(広島市中区・広島市民球場敷地内)。 |
| 「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見ていた衣笠少年は、入団時の契約金で自動車免許を取り、フルサイズのアメリカ車フォード・ギャラクシーを購入した。 |
| 当時のカープは創立十数年の貧乏球団であり、長谷川良平監督やコーチ・主力選手が乗っているのは大半がマツダ車で、中には自転車通勤の者も珍しくなかった。 |
| そんなチーム状況を横目に気ままにアメリカ車を乗り回していたが、何度となく事故を起こし、最終的には免許を剥奪された。 |
| 1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化に伴い、米軍岩国基地は前線基地となっていた。 |
| 基地周辺は兵隊で溢れ、飲み屋やゴーゴークラブなど飲食店が大いに賑わっていた。 |
| 衣笠はよく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていた。 |
| そんなある日、いつものように一緒に飲んでいた米兵の友人に「明日ベトナムへ行くんだ」と告げられる。 |
| 衣笠はこの言葉に大きなショックを受け、好きな野球をやりながら遊び回る自身を恥じ、以後野球に真剣に打ち込むようになったという。 |
| 1970年、最大の恩師というべき関根潤三が打撃コーチとして広島に入団。 |
| 根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した。 |
| 朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。 |
| あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。 |
| そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた。 |
| 関根は怒りもせずに「さあやるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は、泣きながら朝まで素振りを続けた(但し関根は2008年9月27日のフジテレビ739『プロ野球ニュース』において「素振りさせたけど、最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている)。 |
| 後年衣笠の野球殿堂入りが決まった時、関根は『プロ野球ニュース』に出演し、この時の出来事を思い出話として披露。 |
| 「いやあ、あの頃はボクも若かった」と照れ笑いを浮かべていた。 |
| 現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。 |
| そのため本塁打や打点が多い反面三振や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割を超えたことがたった1度(1984年)しかない。 |
| 通算三振数は1587個(当時日本記録で現在は3位、セ・リーグ記録)、通算併殺打は267(セ・リーグ記録)に上る。 |
| ただし、現在の三振数歴代1位(1955個)の清原和博が実働23年で9回100三振以上のシーズンがあったのに対し、衣笠は1回もなく(最多は80、82、83年の89個)、三振数がリーグ最多となったのも70年(81個)の1回しかない(清原は3回)。 |
| シーズン打率3割到達経験なしの通算2000本安打達成者は柴田勲、田中幸雄の2名のみだが、2000本安打達成時点であれば衣笠も含まれる。 |
| 唯一の3割到達シーズンが2000本安打達成後であるため。 |
| 打点王と盗塁王のタイトル獲得経験がある、数少ない選手である(他の該当者は飯田徳治とイチローの2人のみ)。 |
| 元阪神タイガースの江本孟紀は、現役時代の衣笠について「打者の目の高さに投げた明らかなボール球にもフルスイングする。 |
| 当たれば確実に本塁打になるだけに、全く気が抜けなかった」と語っている。 |
| また江本は、衣笠から自身通算1000個目となる三振を奪っているが、偶然にもそれは、衣笠自身にとっても通算1000個目となる三振であった。 |
| 1979年8月1日の読売ジャイアンツ戦、西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。 |
| しかし翌日の試合にも代打で出場し、江川卓のボールにフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。 |
| 試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。 |
| 衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。 |
| チームメイトだった江夏豊とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた。 |
| 江夏が日本ハムファイターズに移籍した1980年オフのキャンプでは、酒が入ると「豊がいない」と泣いていたという。 |
| また「江夏の21球」で知られる1979年の日本シリーズ第7戦では、古葉竹識監督の投手起用に不満を抱きモチベーションが上がらない江夏を「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」となだめる一幕もある。 |
| 連続試合出場の世界記録を更新した時、「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。 |
| この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」との言葉を残した。 |
| 衣笠の記録はアメリカでも非常に高く評価されており、現在でも「キヌガサ」は、アメリカで最も名前の知られている日本人野球選手の一人である。 |
| 1996年6月14日にカル・リプケンJr.(オリオールズ)が記録を更新した試合にも、来賓としてアメリカに招かれた。 |
| また、人間国宝の藤原雄と親しく、上記の試合のとき藤原が作った備前焼をリプケンに手渡している。 |
| 一方、衣笠の世界記録更新の前後には、「記録作りのために出場しているだけ」「監督・コーチの温情」と批判する野球ファンも少なからず存在した。 |
| 1986年以降は思うように成績が振るわなかった(試合にフル出場せず、中盤で交代することも多かった)ことと、1979年、当時三宅秀史が持っていた700試合連続フルイニング出場の記録にあと22試合まで迫りながら、極度のスランプのためスタメンから外されたことがあるという前例が、そのような批判の根拠である。 |
| 江夏豊の著書によると、この時スタメンを外されることが決定した衣笠の荒れようは凄まじいものがあったという。 |
| 広島市民球場の敷地内には、連続出場記録を記念した碑がある。 |
| 長崎県長崎市布巻町(旧・三和町)の元宮公園には、衣笠の業績を称えて名付けられた「衣笠球場」がある。 |
| 名球会主催の野球教室に、当時小学生のイチローが父子で参加した際、イチローについて父親に「お父さん、この子いいですよ。 |
| 通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、どんなに危険で痛い死球を受けても怒るどころか、左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣いながら1塁へ向かっていた。 |
| 連続記録への尊敬の念は勿論だが、上記の1979年の代打の件や自身の連続記録を更新したリプケンへの件に象徴されるように、自分よりもまず人を思いやるその紳士的な人柄こそ、衣笠が球団の垣根を越えて多くの人々に愛された所以だろう。 |
| NHK特集で放送された『17年間休まなかった男衣笠祥雄の野球人生』で自宅で夫人と共にインタビューを受けた際、自宅では一般紙は読むがスポーツ紙を読まなかった(ちなみに新聞販売店のスポーツ紙の勧誘も断っていた事を夫人が明かしていた)。 |
| 食事に関して、衣笠本人も苦労するほどの偏食(この時に魚とご飯が食べられない事)である事を明かしていた。 |
| 現役引退後、ある年のキャンプ取材にたまたま来ていたとんねるずの石橋貴明と一緒に焼肉屋に行った際も肉ばかり食べていたエピソードを『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で石橋本人が発言していた。 |