6181
6310
82524
%E8%A2%81%E4%B8%96%E5%87%B1
%E8%A2%81%E4%B8%96%E5%87%B1
%E8%A2%81%E4%B8%96%E5%87%B1
%E8%A2%81%E4%B8%96%E5%87%B1
%E8%A2%81%E4%B8%96%E5%87%B1
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 袁世凱の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 袁世凱とは
- 人物
- 清朝陸軍の洋式化を担って台頭する
- 変法と義和団の乱
- ストロング・マン袁世凱の政策
- 新生国家元首就任
- 中華民国大総統就任
- 皇帝即位と退位
- 評価
- 参考書籍
- 関連サイト
袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日(咸豊9年8月20日)-1916年6月6日)は中国清末民初期の軍人・政治家。大清帝国第2代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統、及び中華民国大総統。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された元号より 洪憲皇帝と呼ばれることもある。字は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。
人物
| 清朝末期の軍人として陸軍の近代化を進める役割を担いつつ台頭し、彼自身が作り上げた軍事力を背景に政治的にも大きな権力を振るい、欧米諸国では彼のことを「ストロング・マン」と呼んだ。 |
| その後一時失脚するが、辛亥革命の混乱の中で清政府と孫文らの革命派との間で巧みに遊泳し、中華民国大総統となり、革命派を弾圧するとともに、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たった。 |
| さらに一時皇帝に即位したが、内外の反発を買って退位、失意のうちに没した。 |
| 精力絶倫で、一妻九妾との間に17男14女をもうけた。 |
| 長男の袁克定は、吉野作造が家庭教師を務めた。 |
| 父・袁世凱を補佐し、辛亥革命や、袁の皇帝即位などにおいて数々の策謀を巡らせたとされる。 |
| さらに次男の袁克文も崑曲家として著名な人物である。 |
| また、大叔父の袁甲三は道光帝時代の進士で、その子が戸部侍郎・刑部侍郎を勤めた袁保恒(袁の従父)である。 |
清朝陸軍の洋式化を担って台頭する
| 袁の生家は、官僚や軍人を多く輩出した地元でも指折りの名族であった。 |
| そういったなかで生まれた袁は、若いころから立身出世の強い願望を抱いていたと多くの伝記は語っている。 |
| まず官僚を志して科挙に二度挑戦したが、どちらも一度目の試験に及第せず断念した。 |
| そこで軍人となることを志し、1881年には李鴻章幕下の軍に身を投じ、朝鮮に渡った。 |
| その後、任地で発生した壬午の変(壬午事変)・甲申の変(甲申政変)では閔妃の要請のもと巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清に有利に導いた。 |
| そして事実上の朝鮮公使として李鴻章の監督の下、朝鮮の内政にも干渉できるほどの大きな権限を持った。 |
| 袁は朝鮮に政治的・経済的ともに清の勢力を扶植して、対抗する日本勢力を排除しようと考え、特に経済的には一定の成果を挙げている。 |
| ところが1894年、貧しさと圧政にあえぐ朝鮮の民衆が甲午農民戦争(東学党の乱)を起こした。 |
| 朝鮮は清に軍の派遣を要請し、日本も対抗して派兵した。 |
| これにより日清戦争が勃発する。 |
| しかし日清戦争は清の大敗に終わり、敗北の中で袁は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。 |
| 当時の清の軍隊は、軍備の資金は与えられても上官による横領が頻発し満足な装備を持たなかったり、装備は充実していても兵隊の規律がなっていなかった。 |
| 袁は戦後まもない1895年10月には陸軍の洋式化の職務に就き、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し、大きな成果を挙げた。 |
| 当時の欧米人や日本人も、袁の軍隊を視察して高い評価を下している。 |
| 当時の袁の軍隊のことを、新建陸軍と呼ぶ。 |
| 袁の要請で、公使館付武官の青木宣純が軍事顧問として新建陸軍を指導育成した。 |
| 袁は青木を「最も信頼できる日本人」と評していたという。 |
| この軍事力こそが袁の力の基礎となり、その後の北洋軍の屋台骨となった。 |
| 人材面でも、段祺瑞・馮国璋・王士珍(その後北洋の三羽烏と呼ばれる)らはこの時期から袁の幕下に入り、彼を支えることとなる。 |
変法と義和団の乱
| 1898年の戊戌の新政の際には康有為、梁啓超ら変法派を当初支持した。 |
| 軍の洋式化を推し進めていた袁にとっても、変法派の主張は好ましく思えるものであった。 |
| 彼自身、梁の学習サークルである強学会に所属していたこともある。 |
| しかし変法派が西太后ら守旧派を一掃するクーデターを策するとあっけなく裏切り、西太后の側近である栄禄に情報をリークした。 |
| これによって西太后の信頼を得ることとなり、翌年には山東巡撫(省の長官)に任ぜられた。 |
| 義和団の乱では袁は自らの治下での反乱をいちはやく鎮圧し、彼の軍隊の強さを証明した。 |
| 西太后を中心とする北京政府は各省の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁は両広総督・李鴻章、両江総督・劉坤一、湖広総督・張之洞らと協調し、諸外国と東南互保の盟約を結び、北京政府の命令には従わず領土と軍隊を保全した。 |
| 結局義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清朝の軍隊はほとんど壊滅し、袁の力はさらに強まることとなった。 |
| 1901年に李鴻章が没すると、袁は彼を引き継いで北洋大臣兼直隷総督となった。 |
| ここに北洋軍が誕生したのである。 |
| 北洋大臣としての立場から、従来に加えて袁の軍はさらに強化された。 |
| その後も栄禄ら有力者が没していく中でさらに権勢を強め、また西太后からの信頼も極めて厚くなった。 |
| 日露戦争時、清は表面上は厳正中立であったが、袁は諜報や馬賊隊編成などで日本に協力し、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣した。 |
| 1903年11月中旬、袁は青木宣純と天津で会見して、「情報は入り次第日本側に渡す。 |
| 馬賊の使用に関しては、その蜂起を直隷省以外で行うのなら支障ないので、秘密裏に援助しよう」と返答した。 |
| 袁は選りぬきの将校らを満州・蒙古の奥深く、ロシア国境付近まで潜入させた。 |
ストロング・マン袁世凱の政策
| この時期から袁は政治家としても活躍し、いわゆる光緒新政の中心的人物となった。 |
| 彼の採った政策とは、国債などによって諸外国から金を借り、その資金によって陸軍の洋式化、教育機関の拡充、鉄道、銀行などのインフラ整備を行っていくというものであった。 |
| この方式は辛亥革命後に彼が大総統になった後もあまり変化がない。 |
| また、資金を借りることで列強に侵略されるリスクについては、各国に平均して頼ることで回避が可能であると考えていた。 |
| 日露戦争後に日本が東三省(満州)において独占的な権益の確保を企てるが、彼はアメリカを同地に介入させることで、日本の侵食を阻止しようとしている。 |
| 1907年には軍機大臣・外務部尚書となった。 |
| この時期、辰丸事件を機に中国南部沿岸で日貨排斥運動を煽るなど、日本の影響力を削ぐ活動も行った。 |
新生国家元首就任
| ところが1908年に西太后が病没し、宣統帝が即位し、宣統帝の父醇親王載灃が摂政王として政権を担当すると、袁の政界での状況は一変する。 |
| 戊戌変法で兄・光緒帝を裏切った袁を憎んでいた醇親王は、1909年初め、袁を失脚させた。 |
| さらに袁を殺害する計画もあったが、内部情報を得た袁はかろうじて北京を逃れた。 |
| 全ての職を失った袁は、河南省彰徳近くに居を構え、失意の日々を過ごすこととなる。 |
| しかし、一方で彼の部下は多く政権に残っており、また彰徳は交通の要地(現在は、新幹線で北京から3時間半ほど)でもあるため、情報はふんだんに入手していたらしい。 |
| 袁はこの土地が気に入り、墓地もここに作られた。 |
| 袁林と呼ばれている。 |
| 1911年10月、辛亥革命が勃発、華中・華南では革命派優位で情勢が推移した。 |
| 清朝内の満州貴族らも既に袁のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じた。 |
| 袁は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方で革命派と極秘に連絡を交わした。 |
| そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、清朝の要路者に政権の交代をうながした。 |
| こうして1912年2月12日、最後の皇帝・宣統帝が退位して清朝は滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任した。 |
中華民国大総統就任
| 袁の政治に対する考えは一貫しており、中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得るというものであった。 |
| こうした発想は当時の対中国観の主流であり、孫文などもそう考えていた。 |
| しかし、これに対して当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。 |
| 当時としては新鮮なこの考えは多くの国民の心を捉え、国民党は1912年12月の選挙で圧勝した。 |
| 袁は大きな影響力を持ちつつある宋を警戒し、懐柔策をしばらくとり続けたが、ついに1913年3月、宋教仁を暗殺した。 |
| その後も大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた。 |
| この後、多くの国から借款を行い、近代化資金を確保し、インフラ整備を行った。 |
| この借款にたいして南方各省から反発の声があがり反乱となったが、袁は得意の軍事力をもってこれを撃退した。 |
| 反乱軍を指揮していた李烈鈞・孫文・黄興らは日本に亡命した(1913年9月、第二革命)。 |
| さらに国民党の解散命令を出したうえで、国会内の国民党議員を全員解職した。 |
| 1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、袁の中華民国政府は中立をいちはやく宣言した。 |
| しかし、隣国の日本は日英同盟を理由に膠州湾岸のドイツ領に出兵し、占拠した。 |
| この間、袁は日本に領土の返還を求めるが、受け入れられなかった。 |
| さらに日本から対華21ヶ条要求を突きつけられる。 |
| 袁はこの情報を諸外国にリークするなどして不成立させようとするが、1915年5月、ついにこれを認めた(但し、「対華21ヶ条要求」そのものが、袁世凱が共和制の脆弱性を国民に見せ付けるために日本側と打った「芝居」だとする説もある)。 |
| こうした袁の弱腰(と映った)な姿勢に、自治の姿勢を強めつつあった地方勢力が再び不穏な動きを見せていた。 |
| このことが必ずしも理由ではないが、地方から中央への税の流れがとどこおりつつあり、また北京など大都市では袁の専制を批判する動きが学生を中心に広がりつつあった。 |
| 学生の多くは、主に日本から自由民権思想・社会主義などの新しい思想を持ち帰り、袁の施政をすでに時代遅れのものと考えていた。 |
皇帝即位と退位
| こうした不安定な状況の中、1915年に袁は帝政復活を宣言した。 |
| 翌1916年より年号を洪憲と定め、皇帝に即位し国号を「中華帝国」に改めた。 |
| こうした袁の行動は、自らの野望を果たすためという面もさることながら(彼の皇帝即位への願望を示すエピソードはふんだんに残されている)、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要との考えであったという見方が日本の学者では多い。 |
| 北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。 |
| 彼の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁を批判した。 |
| さらには当初傍観していた日本政府が、皇帝即位の受けの悪さを見て取るや、厳しく非難を始めた。 |
| しかし一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。 |
| 袁の死後、彼の部下であった馮国璋、徐世昌、段祺瑞などが相次いで政権につきいわゆる北京政府として対外的に中華民国の正式政府として存続したが、いずれも一国をまとめる力を持ちえず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入した。 |
| 蒋介石の北伐が終了するまでの10年余り、この状況が続くこととなる。 |
評価
| 現在でも中華民国および中華人民共和国で、袁は悪役であり時に漢奸とまでいわれている。 |
| 中国国民党と中国共産党の双方が称揚する孫文らを弾圧したこと、日本の対華21ヶ条要求に屈したこと、そして時代に逆行して皇帝に即位したことは、革命で打ち立てられた共和制中国を乱したとして厳しく批判されている。 |
参考書籍
| J.チェン著、守川正道訳『袁世凱と近代中国』岩波書店、1980年。 |
| (なお、このなかに所収の竹内実の論文「大正期における中国像と袁世凱評価」が、明治末からの大正にかけてのリアルタイムな日本人の袁世凱観をわかりやすくまとめている)。 |
| アーネスト・P・ヤング著、藤岡喜久男訳『袁世凱総統:「開発独裁」の先駆』光風社選書、1994年。 |
| しかし、資料としての袁世凱自身の上奏文・電信文の類は非常に多く残っており、中華民国を中心に出版されている。 |
|
1881年
|
李鴻章幕下の軍に身を投じ、朝鮮に渡った |
|
1894年
|
貧しさと圧政にあえぐ朝鮮の民衆が甲午農民戦... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
|
|
宋教仁
宋教仁(そうきょうじん)は清末民初の革命家・政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用いた。 |
|
|
李鴻章
中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。 |
|
|
蒋介石
蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
|
|
張作霖
張作霖(ちょうさくりん,ZhangZuolin)は中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。満州の統治者であり張学良・張学銘・張学思の父。... |
|
|
段祺瑞
段祺瑞(だんきずい)は清末民初の軍人・政治家。字は芝泉、晩年の号は正道居士。 |
|
|
西太后
清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺... |
|
|
黎元洪
黎元洪(れいげんこう)は清末民初の軍人・政治家である。第2代、4代中華民国大総統。字は宋卿。周囲から「謹厚」とも「柔暗」とも言われる性格のためか、清... |
|
|
愛新覚羅溥儀
清朝第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日-1912年2月12日)、後に満洲国皇帝(在位:1934年3月1日-1945年8月18日)。1964年より中華人民共和国中国人... |
|
|
光緒帝
光緒帝(こうしょてい、こうちょてい、同治10年6月28日(1871年8月14日)-光緒34年10月21日(1908年11月14日)、在位:1875年2月25日-1908年11月14日)は中国... |
|
|
加藤高明
日本の外交官、政治家。外務大臣(第16・19・26・28代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。位階は正二位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。学... |
|
|
北洋軍閥
清朝末から辛亥革命、中華民国成立と中国の権力闘争の中心にいた袁世凱が根拠としていた軍事力を起源とし、袁没後の北京政府(北洋政府)を支配し、または政... |
|
|
蔡鍔
清末民初の軍人。中華民国の初代雲南都督。袁世凱による帝制実施を阻止するため、護国戦争を発動したことでも知られる。原名は艮寅、字は松坡。 |
|
|
吉野作造
大正年間を中心に活躍した政治学者、思想家である。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家... |
|
|
徐世昌
徐世昌(じょせいしょう)は清末民初の政治家。中華民国第4代総統。字は卜五、号は菊人、東海など。引退後は退耕堂とも称した。祖籍は河南省衛輝府汲県。 |
|
|
張学良
中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男である。字は漢卿。 |
|
|
汪兆銘
汪兆銘(おうちょうめい、1883年5月4日-1944年11月10日)は中華民国の政治家。字は季新。号は精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)。知日派と... |
|
|
黄興
黄興(こうこう)は清末民初の中国人革命家。孫文とともに民国革命の双璧と称される。字は&x53AA;吾。 |
|
|
袁世凱さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|