| これより前の興平2年(195年)、献帝が長安からほうほうのていで脱出し、曹陽で大敗し明日をも知れぬ状態であったことを聞き、袁術は漢朝の命脈がつきたと予感し、帝位につく意思を側近達に漏らしたが、押し留められた。 |
| 袁術は不機嫌になったという『三国志』「武帝紀」が引く『魏武故事』によると、曹操が魏公になったときの発言の中で、袁術は皇帝になろうとしたが、曹操の存在を警戒して一時的に思いとどまったとされている。 |
| 袁術は董承の下に部下の萇奴を派遣して献帝の身柄を確保しようとしたが、朝臣の間で董昭を中心に曹操を頼ろうとする動きがあり、やがて董承も曹操と手を結んだため、献帝の身柄は曹操に奪われたこのとき、曹操と敵対した楊奉・韓暹が袁術を頼ってきている。 |
| 曹操は献帝を奉じ、天下に号令をかけ、自らは三公の司空となった。 |
| 一方で、袁術には逆賊として賞金がかけられたという。 |
| 建安2年(197年)正月、袁術は寿春を都として皇帝に即位した「国号を成と称号し、元号を仲家と定めたが、諸群雄の同意を得られず、また袁術本人の奢侈により人心を失った。 |
| 」などという俗説があるが、実際には国号を仲としたと考えられている。 |
| 俗説は『後漢書集解』にある「仲氏(仲家)とは劉氏の漢家や公孫述の成家のように」国号であるの一文を誤解したことに起因すると考えられている。 |
| 大半の諸侯からは皇帝として承認されず、また袁術自身も私欲による奢侈放蕩な生活を求め重税を実施したことにより兵士・領民は大いに飢え困窮し、民衆の反発を惹起した。 |
| この暴政に袁術の家臣からも袁術から離反する者が相次いだ。 |
| 孫策も皇帝即位を諫める書簡を送っているが、諫言が容れられずやはり離反している。 |
| 袁術は徐州の呂布に韓胤を使者に送り婚姻を持ちかけるが、呂布と袁術との接近を嫌う陳珪の意見に従い呂布は婚姻を断った。 |
| そして呂布は韓胤を曹操に引き渡し、曹操に韓胤を処刑させた。 |
| 激怒した袁術は楊奉・韓暹と共同戦線を結び、自身が任命した大将軍の張勲らを派遣して呂布を攻めたが、呂布に依頼を受けた陳登・陳珪親子の計略により楊奉・韓暹が裏切り大敗した。 |
| 袁術は陳国(淮陽)に兵糧の援助を申し入れたが、陳国の相の駱俊は断った。 |
| そこで袁術は、陳王の劉寵と駱俊を暗殺し謝承『後漢書』によると、袁術は部曲将の張闓陽という者を派遣し、兵糧を集めさせた。 |
| 張闓陽は酒の席で、駱俊を暗殺した。 |
| だが、曹操が自ら迎撃に来ると、袁術は逃走し、橋蕤ら4人の将軍が曹操軍を迎撃したが大敗し、橋蕤らは討ち取られた。 |
| 建安3年(198年)、袁術は呂布と再び同盟を結んだ。 |
| 呂布は曹操が荊州の張繍に攻勢をかけた隙をついて曹操に攻撃をしかけたが、反転した曹操の攻勢の前に連戦連敗し、下邳において包囲され孤立無縁となった。 |
| 呂布は援軍を袁術に求めたが、以前の背信を思い起こした袁術は積極的に援軍を送ることはなかった。 |
| 呂布は籠城を続けたものの、水攻めをされて滅ぼされた。 |