| 台湾雷家聖教授の研究雷家聖の学術的な研究成果は、「戊戌変法時期的借才、合邦之議:戊戌政変原因新探」(『歴史月刊』181期,台北:歴史月刊社,2003)、『力挽狂瀾:戊戌政変新探』(台北:萬卷楼,2004)、「書評:茅海建戊戌変法史事考」(『漢学研究』23卷2期,台北:国家図書館漢学研究センター,2005)、 |
| 当時、在華宣教師・李提摩太(ティモシー・リチャードTimothyRichard)は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた。 |
| TimothyRichard,Forty-fiveyearsinChina,Chapter12そこで、伊藤が到着後、変法派の官吏は彼を重用するよう次から次へと要望を上奏した。 |
| そのため、保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、もし彼を重用するようになったら、祖先より受け継いでいる天下は拱手の礼をして人に譲るようなものだ」と西太后に進言した。 |
| 楊崇伊「掌廣西道監察御史楊崇伊摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.461.このような烈しい主張は、西太后をして9月19日(旧暦八月四日)に頤和園から紫禁城に入らせ、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。 |
| ところが、伊藤は李提摩太と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案した。 |
| それを受けて、変法派官吏の楊深秀は9月20日(八月五日)に光緒皇帝に上奏し、「臣は請う:我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」。 |
| 楊深秀「山東道監察御史楊深秀摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.15.「臣尤伏願我皇上早定大計,固結英、美、日本三國,勿嫌『合邦』之名之不美。 |
| 」もう一人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日(八月六日)に次のように上奏した。 |
| 「李提摩太が来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合邦”することにあり。 |
| 時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。 |
| 宋伯魯「掌山東道監察御史宋伯魯摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.170.「渠(李提摩太)之來也,擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政稅則及一切外交等事,別練兵若干營,以資禦侮。 |
| 」あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限を外国人に渡そうとしているかのようである。 |
| 西太后は9月19日(八月四日)に紫禁城に戻った後、20-21日この話を知り、事態の重大さを悟ったため、即断しクーデターを起こして自ら政権の座に戻り、変法自強運動に終止符をつけた。 |
| この新たな研究は、これまでの戊戌変法の解釈・評価を、さらに関与した人物への肯定的/否定的評価をも逆転させ、さらなる研究の必要性を求めることとなった。 |
| なお、この新説に対しては伝統的な立場の学者からは批判も出されているが、戊戌変法をめぐる西太后の評価については現在論争中である。 |
| 西太后は権力の座に返り咲くと、光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)大阿哥とは、この場合皇嗣子を指す。 |
| ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。 |