| 1955年限りで現役を引退した後、1956年から1958年まで毎日の2軍監督を努める。 |
| 1959年には1軍コーチに昇格し、1960年に前年限りで退任した別当薫に代わって監督に就任。 |
| 1年目にしてチームをリーグ優勝に導いたが、日本シリーズ第2戦での戦術(1死満塁のチャンスにスクイズプレイを仕掛けたがダブルプレー)を巡り永田雅一オーナーと対立し、責任を取る形で辞任した(辞任の経緯については後述)。 |
| その後日本短波放送解説者を1年間務め、1962年、阪急ブレーブスにコーチとして招かれ、翌年監督に就任。 |
| 1973年までの11年間で5度のリーグ優勝に導き、常勝球団へと育て上げた。 |
| 1974年より近鉄バファローズ監督。 |
| ここでも1979年に球団初のリーグ優勝を果たした(2シーズン制時代の1975年に後期優勝)。 |
| その後関西テレビ(1982年〜2003年)とスポーツニッポン(1982年〜)で野球解説をしている。 |
| 1988年野球殿堂入り。 |
| 20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず「悲運の名将」と言われた。 |
| ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「選手が頑張ってくれたおかげで8度も日本シリーズに出場できたのだから、私は幸せ者だ」と語っている。 |
| 3つのチームを優勝に導いた監督は2010年現在、西本と三原脩のみ。 |
| 三原が指揮したのが1リーグ時代の巨人とセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄・大洋)だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生だった。 |
| 阪急・近鉄時代には時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導いた。 |
| 西本のように、2チームで自らチームの土台を作り上げて優勝させた監督は極めて稀である(他には南海・ヤクルトを率いた野村克也など一握り)。 |
| 1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1975年の羽田殴打事件などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さなかった。 |
| 1978年オフには監督辞任を表明したが、「俺たちを見捨てないでくれ!」と選手に引き止められて辞任を撤回し、1979年・1980年とリーグ二連覇を達成。 |
| そして勇退表明後、最後の試合となった1981年の近鉄-阪急最終戦(日生球場)では両チームの選手から胴上げされた。 |
| 阪急の監督を勇退した次のシーズンから同一リーグである近鉄の指揮を執ったが、このときは近鉄側から阪急の森薫オーナーに対して近鉄の監督に迎えたいという要請があり、森オーナーも本人の意向に任せるとしてこれを承諾した。 |
| 近鉄との契約の席には森と近鉄社長の今里英三が同席する異例の形となった。 |
| このため、後に野村克也や星野仙一が阪神タイガースの監督に就任したときのような非難めいた議論は当時起きなかった(また、野村や星野の阪神監督就任時にこの西本の前例にはほとんど言及されなかった)。 |
| 監督勇退後は長らくプロ野球ニュース(フジテレビ系)の解説者を務めたが、東京(フジテレビ)のスタジオに出向くことは比較的少なく、特に高齢となった1990年代後半からは大阪・関西テレビからの中継が多かった。 |
| この他、1984年限りで辞任した安藤統男監督の後任として阪神から監督就任要請を受けるも、表向きは高齢であることを理由に辞退している。 |
| 2003年9月15日、阪神タイガースがセ・リーグ優勝を決めた阪神対広島戦を最後に、高齢ということもあり同局の解説業から勇退した。 |
| 鶴岡一人、千葉茂亡き今、日本プロ野球界において川上哲治に次ぐ重鎮中の重鎮で多大な影響力を持っている人物であり、教え子には長池徳士、山田久志、加藤英司、福本豊、今井雄太郎、鈴木啓示、梨田昌孝などが挙げられる。 |
| 広岡達朗は自著『意識革命のすすめ』で、西本をその育成能力の高さから、プロ野球史上最高の監督として評価している。 |
| 吉田義男は「西本さんは名将であり、名コーチでありました。 |
| 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P41。 |
| 現在はめったに公の場に登場する機会はなく、兵庫県宝塚市にて隠居生活を送っている。 |
| また2008年7月8日に夫人を亡くしたことを、2011年元日よりスポーツニッポン紙上で連載を始めた自身の回想録『我が道』にて明らかにした。 |