| 許劭は太守徐璆に任命され郡の功曹(郡の人事権を握る役職)になったが、許靖をとりたてようとしなかったため、生活のために馬磨きの仕事をしたこともある。 |
| 後に、太守が劉翊に代わると、孝廉に挙げられ、尚書郎となった。 |
| 霊帝が没し、十常侍と何進が共に滅びた後、董卓が朝廷を牛耳るようになると、董卓は吏部尚書周毖と共に許靖に人事を管轄させた。 |
| 許靖は汚職をした者を追放する一方、、荀爽・韓融・陳紀・韓馥・孔伷・張邈・劉岱らを中央の要職や地方の長官に任命した。 |
| 許靖自身も巴郡太守に任命されたが任地に赴かず、朝廷にとどまり、御史中丞となった。 |
| しかし、韓馥らが後に董卓に謀反を起こすと(反董卓連合)、その責を問われ周毖が董卓に処刑された。 |
| 許靖は難を逃れるため朝廷を離れ、陳国の相であった従弟・許湯を頼り、豫州刺史となっていた孔伷の下に身を寄せた。 |
| 孔伷が死去すると、揚州刺史の陳禕(陳温)に身を寄せ、陳禕が死ぬと、旧交のあった呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗を頼り江東に渡った。 |
| 袁術の支援を受けた孫策が揚州を席捲し、会稽の王朗を攻撃すると許靖は交州に難を避け、このとき一族の多くが餓死した裴松之は孫策に仕えなかった事を非難しているが、後に許靖が曹操に送った手紙によると、会稽に攻め寄せてきたのは袁術だと考えていたようである。 |
| 交州を支配していた士燮には礼をもって遇され、同じく交州に逃れていた袁徽は荀彧に手紙を送り許靖の人物を賞賛したが、曹操が交州に派遣した使者の張翔は許靖を強引に招聘しようとし許靖に忌避され、腹いせに許靖の出した手紙をすべて捨てた。 |
| 後に益州の劉璋に招聘されて巴郡・広漢郡の太守に任命された。 |
| 荊州の名士である宋忠は蜀郡太守の王商に手紙を送り許靖を礼賛した。 |
| 許靖は王商のことは中原に生まれていれば王朗にも勝っただろうと称えている。 |
| 211年、王商が死去すると許靖が後任の蜀郡太守に転任した。 |
| 214年、劉備が劉璋を攻め成都を包囲すると、許靖は劉璋を見捨て成都城を脱出しようとしたが発覚し捕らえられた。 |
| 劉璋は許靖を咎めず、処刑しなかったものの、後に劉備が蜀(益州)を支配すると劉備は許靖を嫌い任用しようとしなかった。 |
| 「許靖の高名は天下に聞こえ渡っており、許靖を任用しないのなら多くの人は公(劉備)が君子を軽んじていると思うことになります」と法正が劉備に説いたので、左将軍長史に任じられた(「法正伝」孫盛はかつて董卓に仕えて官位を得ていた過去も持ち出して許靖を批判しているが、裴松之は孫盛に反論し許靖を擁護している。 |
| 劉備が漢中王になった際は、鎮軍将軍の職にあり、王への推挙の群臣の中に名を連ね(「先主伝」)、王に就任した後は劉備により太子の劉禅の補佐役(太傅)を任された。 |
| 220年に後漢が魏への禅譲により滅亡した。 |
| その後、献帝が殺害されたという誤報が蜀にもたらされると、221年、群臣と共に劉備に漢の皇帝として即位することを勧めた。 |
| 劉備が皇帝になると司徒に任命された(「先主伝」)。 |
| その頃70歳を過ぎていたが、人材を重んじ、脱世の議論を好んだといわれる。 |
| 222年に没した。 |
| 魏の重臣となった華歆、王朗や陳紀の子である陳羣らとの親交は生涯を通して続き、手紙のやり取りをして旧交を温めたという。 |
| あるとき、王朗は劉備が没したことを知り、許靖に手紙を送って、劉禅、諸葛亮の魏への帰順を促そうとしたが、許靖は既に没していた(『魏略』)。 |
| また、許靖は親類縁者や同郷の人を引き取って育て養育したという。 |
| 蜀の後期に姜維とともに蜀を支えた陳祗は許靖の兄の外孫で、家族の死後に許靖に引き取られて育てられた。 |
| 実子の許欽は許靖に先立ち若死にした(「費禕伝」「費禕伝」では、董允、費禕と名声を等しくしたという汝南の許叔龍という人物が紹介されており、その直後に許靖の子・許某(諱は不詳、許游の父)の葬儀での逸話が記述されている。 |
| 孫の許游は景耀年間に尚書になった。 |