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プロフィール
- 諸葛亮とは
- 書生時代
- 三顧の礼
- 赤壁の戦い
- 入蜀
- 夷陵の戦い
- 益州南部の平定
- 北伐
- 陳寿の評
- その他の評価
- 『三国志演義』中の諸葛亮
- 著作等
- 諸葛亮の子孫たち
諸葛亮(しょかつりょう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。司隷校尉 諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠 武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の 劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る 武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。妻は 黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した 諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した 諸葛 ...
書生時代
| 琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。 |
| 身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。 |
| その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。 |
| 泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。 |
| 生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。 |
| 年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。 |
| 後漢の献帝と生没年が同年である。 |
| まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。 |
| この時の行き先について『三国志』本伝では、従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓(朱儁の子)が豫章太守として派遣され、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。 |
| これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安二年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。 |
| その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。 |
| この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。 |
| ただ親友の崔州平や徐庶だけがそれを認めていたという。 |
| また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。 |
| これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。 |
| 周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。 |
| これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。 |
| 舅の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。 |
| また、諸葛亮の姉は龐徳公の息子の妻であり、龐徳公の甥の龐統も親戚である。 |
三顧の礼
| この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。 |
| 劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。 |
| 諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。 |
| 人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。 |
| これが有名な「三顧の礼」である。 |
| 裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「臥龍」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。 |
| また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。 |
| その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。 |
| それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。 |
| この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。 |
| これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。 |
| これを孔明の出廬と呼ぶ。 |
赤壁の戦い
| 建安13年(208年)、劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。 |
| 劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。 |
| そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。 |
| 観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。 |
| 劉琦はこれに従い、その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。 |
| 劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。 |
| 同年、劉表が死去。 |
| その後を予定通り劉琮が継ぐ。 |
| 諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。 |
| まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。 |
| 劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。 |
| 孫権陣営は情勢観察のために魯粛を派遣してきていた。 |
| 諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。 |
| 劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。 |
入蜀
| 戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。 |
| 諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。 |
| この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。 |
| 建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。 |
| しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。 |
| 劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。 |
| 劉備は龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。 |
| 諸葛亮は張飛・趙雲らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(入蜀合戦)。 |
| 建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。 |
| 劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。 |
| また伊籍・法正・李厳・劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。 |
夷陵の戦い
| その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。 |
| 劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。 |
| 諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。 |
| 建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。 |
| 翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。 |
| 劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。 |
| この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。 |
| この戦いの後、諸葛亮は「法正が生きていれば、これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた(法正は220年に死去している)。 |
| 劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に死去する。 |
益州南部の平定
| 諸葛亮は呉に鄧芝を派遣して、関羽の死後こじれていた関係を修復すると、魏に対する北伐を企図する。 |
| 魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆・王朗・陳羣・許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。 |
| 益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こすが、諸葛亮は225年に益州南部四郡を平定。 |
北伐
| 北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章規範』の評語)と称賛された。 |
| 孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。 |
| 魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった「魏延伝」の記述より。 |
| 諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。 |
| 諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命したが、馬謖は配下の王平の諫言を無視して山上に布陣し、張郃により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。 |
| 撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の語源)、自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。 |
| 二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の郝昭の奮戦により、陥落できないまま食糧不足となり撤退した。 |
| 翌年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。 |
| 建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣したが、張郃ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。 |
| 撤退時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺しているこの戦いは、張郃の戦死を除くと勝敗優劣は『三国志』本伝に書かれておらず、蜀軍が撤退した理由も兵糧不足とある。 |
陳寿の評
| (詳しくは陳寿#陳寿への非難の項を参照)『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引く孫盛の『異同記』によれば、蜀(益州)の長老が「陳寿が諸葛亮の子の諸葛瞻の部下だったとき、諸葛瞻から恥辱を受けた。 |
その他の評価
| 杜甫:「伊尹や呂尚に伯仲し、天下がその指揮に服したならば蕭何や曹参も問題にならなかっただろう」(「詠懐古跡」其の五)。 |
| これに対し、明代の学者・王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」)。 |
| 東晋の武将桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていたときに小吏を勤めていたという百歳をこえる老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今でいえば誰と比べられるか?」と問うた所、「諸葛丞相が存命中のときはそれほど特別なお方のようには見えませんでした。 |
| 東晋の習鑿歯は、かつて劉備が「馬謖に重事を任せてはならない」といましめていながら、諸葛亮が北伐に際し馬謖を将に起用して大敗し、彼を処刑してしまったことを踏まえて、「人を見る目という点で大失敗を犯し、聡明な君主のいましめに背くことになり、人を裁く上で的を外し、有益な人物を殺すこととなった」とし、「中国を併呑できなかったのも当然のことではなかろうか」と厳しく断じている。 |
『三国志演義』中の諸葛亮
| 『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に10万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。 |
著作等
| 諸葛亮は発明家でもあり、諸葛亮に関係した物として、晋時代に普及した筒袖鎧・連発式の弩を工夫した元戎(『魏氏春秋』によれば、この弩は十本の矢を同時に発射することができた)・一説には一輪車の起源とされる木牛・一説に四輪車と言われる流馬・駐留時栽培させた諸葛菜(蕪)・織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦・字を知らない民の教育に使用した紙芝居・諸葛亮が考案したおもちゃ孔明鎖・現在雲南地方に諸葛亮発明の物として孔明灯なるものなどがあるとされる『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は連発式の弩(元戎)・木牛・流馬を開発した。 |
諸葛亮の子孫たち
| 中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省蘭渓市諸葛鎮にあり、住民の多くの姓が「諸葛」となっている。 |
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つながりの強いひと
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姜維
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孫権
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司馬仲達
現代に生きる我々にも通じる重要な行動哲学を見ることができる。目的完遂のためには手段を選ばなかったこの男の人間像から、混迷の時代を制する者の条件を問... |
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呂蒙
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金城武
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諸葛亮さんについてのひとこと紹介
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