| 東京・武蔵野中学校・高等学校時代は陸上部に所属していたが、練習嫌いだったため関東大会どまりで精一杯だった(当時高校生で日本陸上競技界で活躍していた選手では、ロサンゼルスオリンピック代表の増田明美がいる)。 |
| 高校卒業後、一橋スクールオブビジネスから都内の一般企業でOLとして働いていたが、皇居近くを走る市民ランナー達を見て、谷川自身も昼休みに走り始めた。 |
| ジョガー時代から中島進の指導を受ける。 |
| 市民マラソンでの優勝を契機に注目を浴び、1990年に資生堂入社。 |
| 実業団入りしてからの谷川は、着実に平凡な市民ランナーから一躍日本女子マラソン界のトップアスリートへと飛躍していった。 |
| なお資生堂の後輩には、オリンピックに3回連続出場を果たした弘山晴美らがいる。 |
| 1991年の東京国際女子マラソンでは、後にバルセロナオリンピック金メダリストとなるワレンティナ・エゴロワ(ロシア・当時ソ連)らをレース終盤に逆転して、マラソン初優勝を飾る。 |
| 東京では1983年の佐々木七恵以来、8年ぶりに日本女子選手の覇者となり、大きな話題となった。 |
| 翌1992年の名古屋国際女子マラソンでは、初マラソンの大江光子にわずか5秒差で敗れて準優勝にとどまった。 |
| その後も同年のゴールドコーストマラソンでは、途中トイレに駆け込むロスタイム発生が有りながらも優勝。 |
| 1994年のパリマラソンでは、後にアトランタオリンピック金メダリストとなるファツマ・ロバ(エチオピア)らを破って優勝を果たし、現在の自己ベスト記録である2時間27分55秒(当時日本女子歴代9位)をマークした。 |
| 谷川はオリンピック代表候補の選手の一人でもあったが、1992年のバルセロナ五輪へは補欠代表に留まり、1996年のアトランタ五輪へは選考レースでケガのために力を出し切れず、念願の五輪出場は叶わなかった。 |
| それでも谷川本人は「もしオリンピックに出場出来ていたら、もうそこで私は燃え尽きてしまって、きっと走るのを辞めていたと思います。 |
| でも五輪落選の後、『これからも辞めないで走り続けて』と、私を励まして下さった沢山のファンの声に、もの凄く感動しました。 |
| オリンピックに出られなかったからこそ、今でもマラソンランナーとして走り続ける事が出来るのだ、と思っています」と語っている。 |
| 1994年に資生堂から良品計画に移籍、現在はアミノバイタル(味の素)ACに所属。 |
| マラソンの実況解説や、スポーツコメンテーター等としても活動しているが、テレビ番組の冒頭では大抵「マラソンランナー谷川真理」として紹介されている。 |
| 美人ランナーとして現在でもマラソンファンからの人気は高い。 |
| /これって根拠をが薄くない?このままでは独自研究レベルなのでコメントアウトします。 |
| -->資生堂時代から2000年頃まではショーツ形の「ブルマー」、現在は下腹部にぴったりと密着した「スパッツ」か「ショートパンツ」を着用してレースに出場している。 |
| 例年春と秋に行われる「オールスター感謝祭」(TBS系)の企画「赤坂5丁目ミニマラソン」(他「赤坂5丁目ミニ駅伝」等にも出場)には、1997年頃からほぼ毎回出走している。 |
| 但し、谷川に対しては毎回大きなハンデが課されているためか、「赤坂5丁目ミニマラソン」での優勝は2001年・秋の1回のみである。 |
| 毎年、正月明け頃に、ハーフマラソンのイベント「谷川真理ハーフマラソン」の主宰を務める。 |
| 市民ランナーの出場者は毎回ほぼ1万人を超えており、大変人気の有るマラソン大会の一つとなっている。 |
| また、毎年5月に、「谷川真理駅伝」を主宰する。 |
| 両イベントとも地雷廃絶チャリティ大会となっている。 |
| ほか、全国各地の市民マラソンに招待されることが多く、滋賀県長浜市(旧浅井町)で開催される『お市マラソン』、宮城県気仙沼市の『気仙沼つばきマラソン』などからも招待され活躍をしている。 |
| また長野オリンピック記念長野マラソンでは、谷川自身も出走しマイクを持ちながら、市民ランナーに対してインタビューを行うリポーターを務めている。 |
| なお、谷川のいとこである陸上選手に、アテネオリンピックで110mハードルの日本新記録を樹立した、筑波大学講師の谷川聡がいる。 |