| 千葉県の習志野高校から一般入試で早稲田大学第二文学部に入学。 |
| レギュラーに定着した2年生の春(1967年)早々首位打者を獲得するなど東京六大学を代表する左の強打者として活躍。 |
| 史上屈指の打者と言われた師匠石井藤吉郎をして「俺が見た中で早大史上最高の左打者」とまで言わしめた(石井も左打者だった)。 |
| 六大学打撃10傑の常連で大学通算打率.360を記録、ベストナインに6度選ばれた。 |
| 荒川尭とのコンビは“早稲田のON砲”と呼ばれたが、その名にふさわしく両者合計37本のホームランを放った。 |
| 4年時には主将。 |
| リーグ通算82試合に出場し308打数111安打、18本塁打、63打点、打率.360。 |
| 1970年ドラフト1位で中日ドラゴンズ(背番号:14)に外野手として入団。 |
| 意中の球団は巨人であったが石井に相談したところ「セの球団だし行ってはどうか」とアドバイスを受けた。 |
| この年、早稲田大学からは大洋ホエールズに荒川尭、東京読売巨人軍に小坂敏彦・阿野鉱二が入団している。 |
| 1年目からレフトのレギュラーとなり新人王に輝く。 |
| 1973年からは主に一塁を守るようになった。 |
| 巧打の中距離打者として活躍し、1974年の読売ジャイアンツのリーグ10連覇を阻止するチームのリーグ優勝に大きく貢献。 |
| 1976年にイメージチェンジの発想により、背番号を14(いいよ)→41(よい)に変更。 |
| この年打率.355(正確には.35483)で首位打者を獲得。 |
| この首位打者は先に日程を終了していた張本勲(打率.35477)を驚異的な追い上げで逆転したもので、その差.00006(6糸) |
| しかし、1978年頃から大学時代からの持病のアキレス腱痛が悪化しシーズン途中で2軍落ち。 |
| 有効な治療法が無く選手生命が危ぶまれたが、酒マッサージの創始者の小山田秀雄に出会い、日本酒を患部に塗ってマッサージする療法に出会って治療を続け、ついには回復する(小山田はかつて黄金時代の西鉄ライオンズでトレーナー的な役割を担っていたことがあった)。 |
| 1979年9月23日対横浜大洋ホエールズ戦(ナゴヤ球場)の7回に代打で登場してファンの大声援を浴びヒットを放って谷沢健在をアピールした |
| そして翌1980年には打率.369の高打率で2度目の首位打者、カムバック賞を受賞して見事復活を遂げた。 |
| この時以来、「不死鳥・谷沢」と冠名がファンから寄せられ、ヒッティングマーチは「帰ってきたウルトラマン」の主題歌が使われた。 |
| ただしこの年チームは谷沢の活躍にもかかわらず最下位に低迷し勝率は.372だった。 |
| その後1981年にはプロ野球タイ記録となる4打席連続本塁打 |
| 1984年には打率.329、本塁打34本、99打点をマーク。 |
| 1985年10月23日に対広島戦(広島市民球場)で2000本安打を達成し名球会入り(現在は退会)。 |
| 1986年、シーズンオフ後に39歳で引退。 |
| 翌年1987年のオープン戦に引退試合を行いホームランを放った。 |
| すでに解説者に転進しており選手としての調整ができず、引退試合でも打席に立つ時以外は解説者も務めていた。 |
| 引退の理由として、監督に就任した星野仙一(1986年オフ当時)の「監督谷沢は選手谷沢を使えるか?」という発言が決めの一手となったと引退記者会見で述べている。 |
| (記者会見の様子はNHK特集「監督 星野仙一」にて放送された)。 |
| 1989年に早稲田大学大隈講堂で掛布雅之(元阪神)と講演会を行った際には引退が早すぎたかとの質問に答えて「自分でも後一年くらいはやれたと思うが監督の意向が入っており仕方がなかった」と語っている。 |
| 一年先輩の星野とは現役時代から不仲と噂されていた。 |
| リーグ優勝は現役選手としては1974年と1982年の2度、コーチとしては西武時代の1994年に1度の合計3度経験しているが、日本シリーズはいずれも2勝4敗で敗れている。 |
| 1987年から1993年までフジテレビ、ニッポン放送解説者、また1988年から1989年までは「プロ野球ニュース」の週末キャスターを務める。 |
| 1994年から1995年の2年間、森監督と東尾監督のもとで西武打撃コーチ。 |
| その後フジテレビ、東海テレビ、東海ラジオ、東京中日スポーツ解説者となり現在に至る。 |
| 1998年母校・早稲田大学の大学院アジア太平洋研究科に合格。 |
| 国際経営学を専攻し、国際的視野からのプロ野球球団経営のあり方を研究(修士号取得)。 |
| 現在は、早大客員教授として、体育実技/硬式野球とスポーツ論を担当している。 |
| ちなみに、体育実技/軟式野球の担当は応武早大野球部監督である。 |
| なお、日本ティーボール協会副会長として、ティーボールの普及にも長年、尽くしている。 |
| 2004年より社会人野球のクラブチームである西多摩倶楽部(東京都あきる野市)の監督を務め、楽天の育成選手となった金森投手らを育てたが、2005年のシーズンを最後に退任。 |
| 同年9月に、「谷沢野球コミュニティ千葉」(YBC)を設立し、理事長に就任した(2007年にNPO法人格を取得)。 |
| 故郷の千葉県柏市を本拠地として社会人野球のクラブチーム(チーム名は「YBCフェニーズ」)を結成し、2007年のクラブ選手権では南関東大会準決勝に進出した。 |
| 同チームは3軍制という特異な形態である。 |
| また、2009年5月に三重スリーアローズ(2010年発足)のアドバイザーツーオーナー(ATO)という役職に就任することが発表された |
| 谷沢のブログによると、この役職はYBCフェニーズ監督でもある谷沢の立場上の制約に伴うもので、三重の選手やコーチに対する指導、選手の入退団に関する事項への関与をしないという前提で日本野球連盟に認められた。 |
| 2010年11月からは東京大学運動会硬式野球部の臨時コーチに就任した |