| 3歳の時に日立市へ移住し、父は建設業を営んでいたが、国民学校(小学校)2年生の時に太平洋戦争に伴うアメリカ軍の空襲が起こったため日立市は1945年の終戦前に日立空襲と呼ばれる空襲と艦砲射撃を受け、大きな被害を出した。 |
| 母の実家があり自分も生まれた大子町へ疎開し、5年生の時に戦争が終結した後も同地へ留まったスポニチ九州クローズアップ2007年8月16日付 |
| この終戦直後、国民学校(小学校)の教師が持ってきた道具で野球をやった事が、豊田が野球を本格的に始めるきっかけとなった常陽新聞ヘッドラインニュース2008年6月5日付「元プロ野球選手、豊田泰光さんが寄付」 |
| 高校は茨城県立水戸商業高等学校に進み、同校3年生だった1952年の夏に第34回全国高等学校野球選手権大会に出場して2回戦進出(ベスト16)の成績を残した。 |
| 1953年、高校を卒業した豊田は西鉄に入団し、遊撃手のレギュラーとなり、三原脩監督の卓抜した選手起用により、強打の2番打者として活躍した。 |
| 同年には新人王を獲得し、この時に記録した27本塁打は当時の新人選手の最多記録となった同記録は1959年にセ・リーグで読売ジャイアンツの長嶋茂雄が29本を打って更新されたが、高卒選手の記録としては1986年に清原和博が31本塁打を打つまで最多だった。 |
| 現在でも豊田の記録は清原と桑田武(同数の31本)と長嶋に次ぐ4位、高卒では歴代2位である。 |
| プロ2年目の1954年には初のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)優勝を成し遂げ、続く1956年には自ら首位打者となる活躍でチームをパ・リーグ2度目の優勝に導いた。 |
| このときの打率はチームメイトの中西太とは僅差(5毛)であった。 |
| 最終戦を前に中西は打点・ホームランの2冠をほぼ手中にしており、結果次第では戦後初の三冠王が誕生する可能性があったが、チームメイト同士がタイトルを争って雰囲気を悪くすることを懸念した三原が最終戦で両者を休ませ、豊田の首位打者が決まったこの試合では三原は球場に来なかったため、代理で監督を務めた川崎徳次が三原の意向を受けて両者を休ませている。 |
| 続いて出場した1956年の日本シリーズではセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝の読売ジャイアンツを下して初の日本一となり、シリーズの最高殊勲選手(MVP)に選ばれた。 |
| その後も豊田は流線型打線と呼ばれた西鉄の強力な野手の一人として活躍を続け、日本シリーズには1957年と1958年に3年連続で出場し、チームは3連覇を達成し、豊田も1957年には優秀選手賞、1958年には表彰はなかったが同年のシリーズで最多の4本塁打を打った。 |
| 西鉄はその後1959年のシーズン後に三原の退団や大下弘の引退が起こり、中西太は深刻な負傷で試合出場機会が激減したために優勝から遠ざかったが、豊田は安定した成績を残してリーグを代表する遊撃手となった。 |
| 1962年には選手兼任で中西新監督を補佐する助監督を務めたがわずか1年で辞任し、その年のオフに国鉄スワローズ(1965年5月10日からサンケイスワローズ、1966年からサンケイアトムズ、1969年からアトムズ)へトレードされた。 |
| 豊田は10年選手による移籍自由の権利を保有していたが、国鉄への移籍は権利行使による移籍ではなく金銭トレードである。 |
| 西鉄を退団した原因は川崎徳次監督の後任として就任した中西との対立だった。 |
| 前年の1961年オフに成績不振の責任を取る形で川崎監督が辞任すると、西鉄は「監督:中西・助監督:豊田・投手コーチ:稲尾」という青年内閣を組閣した(中西・豊田・稲尾とも当時20歳代で選手兼任)。 |
| しかし中西が三原元監督の娘婿であるということから誰もが中西の采配について文句を言わない中で豊田だけが助監督の立場でいろいろと口を出したため、結果的にこれが中西との対立に発展した。 |
| ただ、本人は出演したテレビ番組の中で、移籍の理由は中西との対立ではなく、現役で脂に乗っている時期に助監督に任命されたことに対して「場当たり的な人事だ」とフロントに不満を持っていたと述べている。 |
| その後中西とは関係を修復し、現在では「太さん」「トヨ」と呼びかける、普通の先輩後輩に戻っている。 |
| 国鉄入りした原因として、当時国鉄のコーチに高校の先輩である砂押邦信がいたことが挙げられる。 |
| 豊田は茨城県立水戸商業高等学校時代当時の立教大学野球部監督の砂押と入学の約束を交わしていたが、それを反故にしてプロ入りしてしまった。 |
| そのため、砂押から「最初立教大学に入ると約束したのにプロ入りしたではないか。 |
| 二度もワシの顔を潰すのか!!」と一喝された。 |
| これが原因で砂押には頭が上がらなくなってしまい、国鉄入団となった。 |
| また、西鉄の西亦次郎球団社長は、豊田の放出を当初否定したものの、この頃国鉄球団の経営に関与するようになった産経新聞社の水野成夫社長と九州政界の大立者が介入して成立したとも言われている「プロ野球トレード史Ⅱ」ベースボール・マガジン社・1990年。 |
| 他に、同社刊「ヤクルトスワローズ球団史」(徳永喜男・1992年)にも「右翼某大物が介入」との記述があった。 |
| 国鉄移籍決定後、豊田は、当時の球団フロントから「福岡はお前の放出が原因でファンが騒動を起こしているから、来るな」と言われ福岡では豊田不在のまま移籍会見が行われたため、豊田に対して「今まで応援してきたのに最後に姿を見せないとはどういうことだ」とファンから批判が起こった。 |
| 西鉄は豊田放出の見返りとして金田正一投手または村田元一投手のいずれかを望んだものの、結局トレードマネーで解決し、得た資金でウイルソン・ロイ・バーマの3外国人選手(いずれも野手)を獲得。 |
| 1963年の優勝にこの3人が大きく貢献することになる。 |
| 移籍後は脚力が衰え、主に一塁手、あるいは代打として活躍した。 |
| 1968年からは打撃コーチを兼任。 |
| 同年には2試合連続で代打サヨナラ本塁打の離れ業を見せている(この記録は豊田と若松勉しか達成していない)が、相手投手は2試合とも中日ドラゴンズの山中巽だった。 |
| 同じ投手からというのはプロ野球史上豊田のみの珍記録である。 |
| 17年間の現役生活の末に1969年シーズン終了後に引退した。 |
| 引退のいきさつは、当時小学生だった息子の一言が引き金となっている。 |
| 「あんたの子供がけんかで相手に怪我を負わせた」という小学校からの通知。 |
| それが来た夜豊田は「何で怪我を負わせたんだ?!」と問い詰めると息子は「『お前んとこの父親は役立たず。 |
| 役立たず』とはやしたてられ、カッとなってボコボコにした」と答えた。 |
| これを知った豊田は「もう、引退しないといかんなぁ」と決意したといわれている日本テレビ『いつみても波瀾万丈』に豊田が出演した際、再現VTRで紹介された。 |
| -出典を明示してから表示を復帰させてください本人が著書で明かしたところによるとこれだけが引退の理由ではない。 |
| 当時豊田は右肘を痛めていたこと、さらに国鉄移籍時からなぜか「将来の監督就任という条件含みでの移籍」という噂が流れており、これがもとで当時の監督・別所毅彦との対立が発生していたという。 |
| 現役引退後はニッポン放送などで解説者となった後、1972年に近鉄バファローズで1年間コーチを務めたが、1973年以降は評論活動に戻り、以後30年以上にわたって野球評論を続けている。 |
| 『週刊ベースボール』に持つ連載コラム「豊田泰光のオレが許さん!」は、1993年開始から現在に至るまで通算800回以上続いており、日本経済新聞ではスポーツ欄にコラム「チェンジアップ」の連載を続けている。 |
| 1994年に発足した日本プロ野球OBクラブには当初から参加(2000年までは副会長・技術委員長も任務)しており、1997年茨城県稲敷郡桜川村(現:稲敷市)でホームグラウンド(桜川村総合運動公園野球場〔現:稲敷市桜川総合運動公園野球場〕-茨城ゴールデンゴールズのホームグラウンドでもある)が完成した際のイベントにも登場していたが、運営方針をめぐって大沢啓二等他の役員と意見が対立し、現在は批判的な立場をとっている。 |