SPYSEEとは
|
よくあるご質問
|
ユーザ登録
|
ログイン
検索
詳細検索
15212
15375
173093
%E8%B3%88%E5%85%85
%E8%B3%88%E5%85%85
%E8%B3%88%E5%85%85
%E8%B3%88%E5%85%85
%E8%B3%88%E5%85%85
0
賈充
Tweet
トップ画像の変更
他の画像検索結果
※ 画像について
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。 人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう
賈充の画像検索結果ページ
で修正できます
閉じる
ネットワーク
タグ
政治家
歴史上の人物
官僚
学者・研究者
タグを編集
キーワード
217年
282年
咸寧
西晋
陳泰
すべて見る
プロフィール
賈充とは
経歴
西晋建国の功臣に
一族
参考
賈充(かじゅう、217年-282年)は、中国の三国時代魏から西晋にかけての武将・政治家。字は公閭(こうりょ)。西晋衰退のきっかけを作った
恵帝
皇后
賈南風
の父。
経歴
賈逵
の子で、228年に父が病死した後、12歳で陽里亭侯を継いだ。
当初は
曹爽
、
何晏
に取り立てられたが、
曹爽
達の失脚後に一時免職となる。
復職後は司馬氏の腹心として活動する。
255年に毌丘倹・
文欽
が反乱を起こした時には参軍として出征し、遠征からの帰還の途上で
司馬師
が急死した後の軍を監督した。
257年には
司馬昭
の命令で
諸葛誕
の様子をうかがうために使者に赴き、
諸葛誕
に叛意があることを
司馬昭
に報告している。
魏の皇帝
曹髦
(高貴郷公)が司馬氏から実権を奪い返すために兵を挙げた際、この事変の収拾を意図した
司馬昭
の指示を受けて、乱の鎮圧に赴いた。
このとき、賈充は部下の成済に命じて
曹髦
を殺害させた。
陳泰
は賈充を皇帝殺害の罪で極刑にすべきと
司馬昭
に訴えたというが、結局は実行犯の成済が罪を被せられ処刑され、賈充は何の罪にも問われなかった。
264年、蜀征伐で蜀を滅亡させた鍾会が独立を図ると、
司馬昭
の命令で賈充は軍を率いて関中に赴いたが、途中で鍾会の死を知らされた。
西晋建国の功臣に
司馬昭
の死後、その子の
司馬炎
(
武帝
)に仕え、
司馬炎
(
武帝
)への禅譲に協力し、
司馬炎
(
武帝
)が皇帝になると、羊祜・
荀勗
・
裴秀
・王沈らとともに、晋朝成立の功臣(佐命の勲)として功賞され、賈充の功績は筆頭に挙げられた。
陳騫
と共に特別な香を付与されたこともある。
晋の時代となると要職である司空・尚書令等を歴任し、泰始律令の制定にも当たった。
擁州、涼州で異民族の大規模な反乱がおきると鎮圧に赴いたが失敗している。
呉征伐には終始消極的で、羊祜亡き後も、
杜預
や
張華
といった主戦派を批判しつづけた。
咸寧6年(280年)の呉征服戦(晋が呉を滅ぼした戦い)においても、終始開戦に反対し続け、
武帝
にたしなめられた。
総指揮官を任されてもそれは変わらず、
杜預
達が快進撃を続ける中でもたびたび撤退を主張する有り様であった。
結果的に呉征服は大成功を収め、中国は統一された。
開戦に反対し続けていたとはいえ、賈充の地位が揺るぐことはなく、
荀勗
や馮紞(
李孚
の孫)らと結託し、娘の
賈南風
を太子司馬衷(
武帝
司馬炎
の次男、
恵帝
)の后とすることに成功し、任愷や
張華
などの政敵を次々に排除していった。
むしろ
杜預
といったかつての対呉主戦派は中央に賄賂を送るなど、保身に汲々とする有様だったという。
魯公に封ぜられ、死後、
武公
と謚された。
生涯を通じて
武帝
に対して忠実な臣下であったが、
武帝
の同母弟で自身の娘婿でもある
司馬攸
の庇護者でもあった。
呉征伐に反対したのは、異民族に対する憂慮や当時
司馬攸
が服喪期間中であり、
司馬攸
の政治的地位の低下を慮っていたとの説もある。
武帝
が斉王を死に追いやる斉王帰藩問題が勃発するのは賈充が死去してまもなくである。
一族
賈充は当初は李氏(李豊)の娘を娶っていたが、李豊が謀反の罪で
司馬師
に殺害されると、郭氏を後妻に迎えた。
後妻の郭氏は嫉妬深い人物で、賈充が側室と設けた男子を精神的に追い詰めて次々に死に追いやり、
賈氏
は後継者がいなくなってしまった。
郭氏は強引に外孫である
賈謐
を後継者として認めさせた。
郭氏の娘の
賈南風
は
武帝
の没後、
恵帝
の皇后となったが、権力闘争を繰り広げた結果、晋を衰退させ(八王の乱)、最後は趙王
司馬倫
により自害に追い込まれ、賈一族も皆殺しとなった。
李氏の娘の一人の賈荃は斉王
司馬攸
(
武帝
司馬炎
の同母弟)の妃となり、斉王司馬冏を生んだ。
司馬冏は当初は
司馬倫
と共に賈一族を滅ぼすのに加担したが、後に
司馬倫
と対立しこれを倒し政治の実権を握ることになる。
まもなく自身も賈后や
司馬倫
と同様に内乱により殺害された。
賈充が建国に大いに貢献した西晋は、こうして彼の子や孫達によって短命のうちに滅亡へ向かっていき、それは彼の一族もまた破滅させることとなった。
参考
福原啓郎『
西晋の武帝
司馬炎
』。
晋書(ウィキソース中国語版)。
賈充 - Wikipedia
より要約
投票数
0
ふりがな
入力する
性別
入力する
出身地
入力する
生年月日
入力する
血液型
入力する
職業
入力する
所属
入力する
Twitter
入力する
フォロワー
追加・投票
不適切なページとして報告する
閉じる
不適切なページを報告する場合は、
ログイン
または
ユーザ登録
してください
※名誉毀損・誹謗中傷にあたる情報の削除等はこちらからお願いいたします
つながりの強いひと
司馬昭
三国時代の魏の武将・政治家。字は子上(小説『三国志演義』では子尚)。司馬懿の息子で、司馬師の弟、晋の武帝司馬炎の父。晋代に太祖の廟号と文帝の諡号を...
賈逵
後漢末期から三国時代の政治家・武将。魏に仕えた。本名は衢、字は梁道。河東郡襄陵(山西省臨汾市襄汾県)の人。
賈南風
中国の西晋恵帝の皇后。賈皇后と呼ばれる。平陽の人で、父は賈充である。
陳泰
陳泰(ちんたい、?-260年)。字は玄伯。諡は穆。中国の三国時代の魏の武将。父は陳羣、母は荀氏(荀彧の娘)。子は陳恂・陳温。
諸葛誕
中国三国時代に魏に仕えた政治家・武将である。字は公休。琅邪郡陽都県の出身で、諸葛亮の族弟(いとこもしくは同世代の親族)にあたる。実際は諸葛瑾、諸葛...
司馬師
中国三国時代魏の武将、政治家。字は子元。廟号は世宗、贈号は景帝。司馬懿の長子で、司馬昭・司馬幹の同母兄。生母は張春華(贈穆皇后)。
杜預
中国の三国時代の魏、西晋時代の政治家・武将・学者。字は元凱。諡は成。伝統的には「どよ」とも訓まれてきた。祖父は杜畿、父は杜恕。子に杜耽・杜錫を持つ...
恵帝
恵帝(けいてい)は西晋の第2代皇帝。生まれつき暗愚であり、西晋に混乱をもたらした。
郭嘉
郭嘉(かくか、170年-207年)は中国後漢末期の武将・政治家。字は奉孝(ほうこう)。郭奕の父、郭深・郭敞(『世語』)の祖父、郭猟の高祖父。頴川郡陽&32735...
曹爽
字は昭伯。曹操の従子(おい)に当たる大司馬曹真の長男であり、魏の宗室の身分である。
もっと見る
司馬炎
西晋の初代皇帝。魏から禅譲を受けて晋を建国し、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を...
裴秀
三国時代の魏から西晋にかけて政治家。字は季彦。司隷河東郡の人。祖父は後漢に仕えた裴茂、父は魏に仕えた裴潜。裴浚、裴頠の父。『三国志』の父の伝に引用...
司馬攸
晋(西晋)の皇族。字は大猷。諡は献。司馬昭の三男で、初代皇帝・司馬炎の同母弟。他に同母兄の司馬定国(遼東悼恵王)と同母弟の司馬兆(城陽哀王)・司馬...
何晏
中国の後漢末期から三国時代の魏の政治家、学者。字は平叔。黄巾の乱を平定した後漢の大将軍何進の孫。父と子の名は不詳。「諸夏侯曹伝」の曹真の伝に付伝さ...
賈午
賈午(かご、260年-300年)は魏晋南北朝時代(西晋)の人物。晋の太尉賈充と郭槐の末娘で恵帝の皇后賈南風の同母妹、韓壽の妻、賈謐の母。父の賈充は武帝(司...
孟達
後漢末期から三国時代の軍人。字は子敬(しけい)、のちに子度(しど)。涼州扶風郡の人。父は孟他、子は孟興。甥に鄧賢。劉璋・劉備に仕え、蜀(蜀漢)の成...
魏延
中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将。字(あざな)は文長(ぶんちょう)。義陽郡の人。劉備の荊州時代以来の配下。
曹髦
三国時代の魏の第4代皇帝。廃位されたため諡はなく、一般的には即位前の称号で高貴郷公と呼ぶ。
馬謖
後漢末期から三国時代にかけての武将。蜀に仕えた。字は幼常。襄陽宣城(湖北省宜城県)の出身。襄陽の名家である「馬氏の五常」の中の五男(末っ子)として...
司馬懿
中国後漢末期から三国時代魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てら...
賈充さんについてのひとこと紹介