| 2008年11月3日の東日本実業団対抗女子駅伝に出走後、大阪国際女子マラソンへ初マラソンに挑戦する事を表明。 |
| なお初マラソンに大阪を選んだ一番の理由は、「全日本大学女子駅伝で4年連続区間賞を獲得した縁起の良い場所だから」との事であった。 |
| その翌2009年1月25日開催の大阪国際女子マラソン本番では、前半から5Kmラップが17分台前半のややスローペースの中、積極的に先頭に立ちレースを引っ張った。 |
| 30Km付近から渋井陽子とのマッチレースになるが、31Kmを過ぎてからは更にスパートをかけた渋井についていくことが出来なかった。 |
| 結果優勝した渋井とは2分近くの差をつけられ、2時間25分台の2位に留まる。 |
| それでもゴール後の赤羽は「楽しかった。 |
| 次に繋がるレースが出来た」と満足そうな笑顔を見せていた。 |
| 2009年5月7日、同年8月開催の世界陸上ベルリン大会の女子マラソン代表へ、最後の5人目で選出された。 |
| ママさんランナーとして世界陸上代表及びマラソン代表では、日本陸上界で共に史上初となる。 |
| その3日後、5月10日の仙台国際ハーフマラソンでは、1時間8分50秒のタイムで同大会初優勝。 |
| また6月25日の日本陸上選手権の女子10000mでも、佐伯由香里・福士加代子らを破って初優勝を果たした。 |
| しかし期待された2009年8月23日開催の、世界選手ベルリン大会女子マラソン本番では、8月上旬に右足裏を痛めたのとレース中に脱水症状を起こすアクシデントが響いて、25Km地点を過ぎた後に先頭集団から脱落。 |
| 完走はしたものの、日本代表4選手では最下位の31位に終わった(女子マラソン団体戦では日本代表で銀メダルを獲得)。 |
| その後再起を期して、2010年1月31日に開催された大阪国際女子マラソンでは、直前に左膝を痛めながらも強行出場。 |
| 26Km辺りまで自らハイペースで先頭集団を引っ張ったものの、怪我の影響からか大阪城公園内の急な下り坂付近で失速。 |
| 30Km過ぎでは足が攣って一回立ち止まり屈伸、苦悶の表情でゴールを目指すも39Km手前で夫の周平コーチに止められ、無念の途中棄権となってしまった。 |
| 2010年4月25日のロンドンマラソンは、直前の同年4月14日アイスランドのエイヤフィヤトラヨークトルの噴火の影響で一時交通が麻痺、開催が危ぶまれる程だったが本番当日は予定通り決行となる。 |
| そのレースでは、33Km付近までハイペースの先頭集団についていたがその後遅れ始める。 |
| 左足に水膨れと爪が剥がれるハプニングが有りながらも粘り強く走り続け、自己ベストとなる2時間24分台をマーク、日本女子トップの6位でゴールした。 |
| 2010年6月に開催された日本陸上選手権では、6月4日に女子10000mと及び6月6日の女子5000mにそれぞれ出場したが、両種目共に優勝した福士加代子と2位の木崎良子に及ばず3位に甘んじた。 |
| 2010年7月4日開催の札幌国際ハーフマラソンは、優勝した加納由理らのペースについていけず、1時間13分30秒の7位に留まった。 |
| 2011年1月30日、コースが一部新しく変更された大阪国際女子マラソンへ、3年連続出場となった。 |
| 低温と強風という悪条件の中、同レースでは終始先頭集団につけ、34km付近から伊藤舞との一騎打ちになる。 |
| 39km過ぎで赤羽はスパートを掛けて伊藤を引き離し、そのまま長居スタジアムへトップで入り、5度目のマラソンにして念願の初優勝を果たした(なお世界陸上大邱大会女子マラソン代表入りも大きく前進となるが、内定条件の2時間26分00秒には惜しくも届かなかった)。 |
| 2011年4月17日のロンドンマラソンに出場。 |
| 赤羽自身は大阪の後に本大会への出場を決めていたが、その後、3月11日の東北地方太平洋沖地震により名古屋国際女子マラソンが中止となり、日本陸上競技連盟が本大会を急遽世界選手権代表選考競技会に指定したため、日本人選手が多く参戦したレースとなった。 |
| レースでは自己ベストタイムとなる2時間24分08秒でゴール。 |
| 結果として日本人選手トップとなり、順位は前年と同じ6位であった。 |
| その後、日本陸上競技連盟理事会で世界選手権大邱大会の日本代表に選出され、8月27日に施行された初日の女子マラソンに出場。 |
| レースはスタートから32km付近までは団子状態で先頭集団をキープしたが、33kmからのケニア勢のスパートについて行けずに大きく離される展開となり、最終的には2時間29分35秒で5位入賞となった |