| 故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫瓚の配下となった。 |
| 公孫瓚が青州において袁紹と戦っている田楷の援軍として劉備を派遣した際に随行し、劉備の騎兵隊長となった。 |
| 上記『趙雲別伝』によると、その後趙雲は兄の喪のために公孫瓚の元を辞して故郷に帰ることとなり、劉備は趙雲が戻ってこないことを悟った、とある。 |
| (192年に常山郡が袁紹の手に移ったのが理由であろうか)。 |
| 劉備が袁紹を頼ると(200年)、趙雲は鄴で劉備と久しぶりに目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。 |
| 建安13年(208年)、劉備が曹操の大軍に追われて逃走した時、荊州の当陽県長坂で趙雲は劉備の息子阿斗(後の劉禅)を自ら抱え、また甘夫人(劉備夫人)を保護した(長坂の戦い)。 |
| このとき、劉備の娘二人が敵将曹純によって奪取されており、趙雲の逃走はかなり困難なものであったことが読み取れる。 |
| この戦いの後、牙門将軍に昇進した。 |
| 上記『趙雲別伝』によれば、同年荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守となったとされる。 |
| またこの時、桂陽攻略時に降伏してきた太守の趙範が自らの兄嫁(未亡人)を嫁がせようとしたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った物では有りませんし、天下に女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。 |
| 劉備が入蜀の際に趙雲を留営司馬に任じ、奥向きのことを取り締まらせたことなどからも、趙雲が厳格な性格であったことがわかる。 |
| 劉備の蜀入りの際には荊州に留まったが、建安18年(213年)、諸葛亮に率いられて張飛とともに長江をさかのぼって入蜀し、各郡県を平定した。 |
| 趙雲は江州(重慶)からは別の川を通って西進し、途上で江陽を攻略した。 |
| 蜀が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。 |
| 上記『趙雲別伝』によれば、益州支配後に劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、反対したとの記載がある。 |
| 上記『趙雲別伝』によれば、漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠を救出し見事な撤退戦と空城計を演じ、劉備から「子龍は一身これ胆なり(子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中では虎威将軍と呼ばれるようになった。 |
| このエピソードは『資治通鑑』にも残っている。 |
| 221年、孫権を討とうとする劉備を諫めるが聴き容れられず(夷陵の戦い)、趙雲は江州に留まった。 |
| 蜀の建興元年(223年)には中護軍・征南将軍に昇進し、永昌亭侯に封じられた。 |
| 後、鎮東将軍に昇進した。 |
| 同5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。 |
| 翌228年、諸葛亮は斜谷街道を通ると宣伝し、魏の曹真はこれを真に受けて大軍でおしよせた。 |
| 趙雲は鄧芝とともにその相手をする囮となり、諸葛亮は祁山を攻めた。 |
| 趙雲と鄧芝は箕谷で敗北したものの、軍兵をとりまとめてよく守り、大敗には至らなかった。 |
| しかし敗北の責任として鎮軍将軍に降格された。 |
| 『趙雲別伝』によれば、趙雲は軍需物資を殆ど捨てずに退却に成功したため、諸葛亮は恩賞として趙雲軍の将兵に分配しようとした。 |
| しかし趙雲は敗戦にあって恩賞を出すのは道理に合わないとして固辞し、冬の備えとするように言った。 |
| 水経注によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡るかけ橋を焼き壊すことで魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。 |
| 翌229年没した。 |
| 長男の趙統が後を継いだ。 |
| 261年、趙雲は順平侯の諡を追贈された。 |
| 上記『趙雲別伝』に記載する姜維らの進言では、。 |
| 「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します。 |
| 趙雲に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」。 |