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プロフィール
- 足利義持とは
- 生涯
- 評価
- 水墨画と芸能
- 経歴
- 水墨画作品
- 義持の偏諱を受けた人物
- 参考文献
- 登場作品
足利義持(あしかがよしもち)は、室町幕府第4代将軍。父は3代将軍 足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の 藤原慶子(ふじわらのよしこ)。
生涯
| 弟義嗣が父に偏愛されたために、義満との父子関係は険悪であったとされ、に9歳で義満より将軍職を譲られるが太政大臣となった義満の在世中は実権がなく、幕府の評定も義満の居住する北山第で開催されて義持が参画する事はなかった。 |
| 義満死去直前に後小松天皇が「北山第」に御成した際も、義満が寵愛した異母弟の義嗣は天皇に謁見したが、義持自身は京都警備番をさせられる等、偏愛にも苦しんでいたようである。 |
| 1428年(応永35年)1月、浴室で尻の傷を掻きむしって感染症にかかり、重態に陥った。 |
| 群臣が後継者を定めるように懇願するが義持は拒否し、群臣達が評議して定めるよう命じた。 |
| 評議の結果、義持の弟4人から一人を籤引きで定めることが決まり、義持もこれを了承した。 |
| 後継を指名しなかった理由としては満済の「満済准后日記」では「義量死亡の後に一度石清水八幡宮で籤を引き、その際に男児誕生の結果が出た。 |
| さらにその日には男児誕生の夢を見た。 |
| それなのにもう一度籤を引くことは神慮に背くことになる」と義持が語り、このため養子も猶子も定めなかったとしている。 |
| 一方万里小路時房の「建内記」では、「たとい仰せ置かるといへども面々用い申さずば正体あるべからず(たとえ言い残しても幕閣が承認しなければどうしようもない)」と義持が語ったとされる桜井英治『室町人の精神日本の歴史12』(講談社学術文庫)2009年(原著は2001年)ISBN978-4062689120。 |
| 義持は自分の死後に籤を引くよう言ったが、幕閣は事前に籤を引き、義持死後に開封することを決めた。 |
| 1月18日、義持は死去した。 |
| 義持の死後、籤によって将軍職は足利義教が継ぐことになる。 |
評価
| 義持の治世は懐良親王が制圧していた九州を有力大名の大友氏・大内氏・菊池氏が引き継いで統治していたり、関東地方の鎌倉公方は半独立国状態となるなど、不安定要素はいくつも存在したが、政治的には小康状態が続き、室町時代の中では比較的安定した時代であった。 |
| 義持は父・義満とは不仲であったといわれたが、実際の基本政策では義満の路線を踏襲した政治を行っていた。 |
| だが、義持自身が斯波義将ら有力守護に推されて政権を獲得し、有力守護に対抗するために形成した側近集団の富樫満成や赤松持貞が有力守護たちによって逆に失脚させられるなど、義満のような絶対的な将軍権威を確立する事は遂に成功しなかった。 |
水墨画と芸能
| 義持の治世下は、詩画軸に全盛期であり、現在国宝に指定されている如拙筆の「瓢鮎図」も義持の発案・指導によって描かれた。 |
| それだけに飽きたらず、自分自身も画技にも親しみ、素人離れした作品が真贋に問題があるものも含めて15点ほど残る島尾新『絵は語る5瓢鮎図─ひょうたんなまずのイコノロジー』平凡社、1995年31頁注よりISBN4-582-29515-0。 |
| 芸能においては、特に田楽を好み増阿弥を贔屓した。 |
| 義持は、父への反発感から義満が好んだ猿楽能には冷淡だったと言われるが、猿楽能についても義満以上の鑑賞眼があったと伝えられ、猿楽を見物した記録もいくつか残っている。 |
経歴
| 12月17日、正五位下に叙し、左近衛中将に任官。 |
| 6月3日、従四位下に昇叙。 |
| 左近衛中将兼任如元。 |
| 1月28日、美作権守兼任。 |
| 4月20日、正四位下に昇叙。 |
| 9月12日、参議に補任。 |
| 左近衛中将美作権守両官兼任如元。 |
| 1月5日、従三位に昇叙。 |
| 参議左近衛中将如元。 |
| 3月29日、権中納言に転任。 |
| 1月5日、正三位に昇叙。 |
| 1月5日、従二位に昇叙。 |
| 3月24日、権大納言に転任。 |
| 1月6日、正二位に昇叙。 |
| 11月19日、従一位に昇叙。 |
| 8月17日、右近衛大将兼任。 |
| 1月5日、右馬寮御監兼務。 |
| 3月23日、内大臣に転任。 |
| 右近衛大将兼任如元。 |
| 5月、右近衛大将辞任。 |
| 10月22日、淳和奨学院両院別当兼務。 |
| 8月29日、内大臣辞任。 |
| 3月18日、征夷大将軍辞職。 |
| 4月25日、出家。 |
| 1428年(応永35年)1月18日、薨去。 |
| 1月23日、贈太政大臣。 |
| 肖像画:京都市右京区の神護寺所蔵(伝土佐行秀筆)。 |
| 天龍寺塔頭慈済院にも、容貌の特徴が類似した作品が残る(共に重要文化財)。 |
水墨画作品
| 布袋図(福岡市美術館)重要文化財。 |
| 白衣観音図(京都・相国寺長得院)。 |
| 寒山図(岡山県立美術館)紙本墨画重要美術品。 |
| 杜子美図(シアトル美術館)紙本墨画。 |
義持の偏諱を受けた人物
| 京極持高(持光)。 |
| 河野持通(通久)。 |
| 山名持豊(宗全)。 |
参考文献
| 伊藤喜良「義持政権をめぐって–禅秀の乱前後における中央政局の一側面」(所収:伊藤『日本中世の王権と権威』(思文閣出版、1993年)ISBN978-4-7842-0781-7)。 |
| 小林保夫「室町幕府将軍専制化の契機について–足利義持期の二つの事件をめぐって-」(所収:上横手雅敬編『中世公武権力の構造と展開』(吉川弘文館、2001年)ISBN978-4-642-02805-9)。 |
| 伊藤喜良「足利義持(人物叢書)」(吉川弘文館、2008年)ISBN978-4-642-05246-7。 |
登場作品
| 山田風太郎「室町の大予言」(文藝春秋/文春文庫『室町少年倶楽部』収録、1995年)。 |
| 鯨統一郎『とんち探偵一休さん金閣寺に密室』(祥伝社、2000年)。 |
| 坂口尚『あっかんべェ一休』(講談社/講談社漫画文庫、1993-1996年)。 |
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1416年
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帰京)にこれに呼応した北畠満雅がの称光天皇... |
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父
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