| 金沢高、日本大学と相撲部で活躍。 |
| 真偽は不明だが、日大時代のテストでは、白紙の答案用紙に「日大相撲部、輪島」と書いておけば合格になったという伝説がある。 |
| また、もともと文理学部体育学科に在籍していたが、当時の体育学科は卒論が必修だったため、卒論が必修ではない同学部社会学科に転籍したといわれている。 |
| 大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。 |
| 学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。 |
| 日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。 |
| 東農大出身の元小結・豊山(現・立田川親方)は大学時代からのライバルである。 |
| ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を大学の宿舎で過ごさせるという異例の特別待遇で入門し、幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。 |
| 1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。 |
| 大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。 |
| 同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。 |
| 「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたのに対し、「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせたのみである。 |
| それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。 |
| またこの頃、貴ノ花と同部屋の魁傑(現放駒)の3人で“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれた。 |
| 学生相撲出身初の横綱であり、横綱になっても本名を四股名にしていたのは大相撲の歴史上でも輪島のみ(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。 |
| 右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡したなお北の湖は、「輪島は左だけでなく右からの攻めも非常に強く、それで左下手投げが決まっていた」と語っている(平成初期のビデオシリーズ「大相撲大全集 昭和の名力士 輪島・北の湖」より)。 |
| 下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例である。 |
| 当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」(相撲は「摺り足」が基本で、足の裏を地面から離す「走る」行為は基本に反する、という考えからか?)と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。 |
| こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。 |
| 千代の富士、鷲羽山等小兵力士には絶対的な強さを見せたが(自身もそれほど大柄な部類ではなかったが)、高見山等の巨漢力士に対しては脆さを見せる事も多かった。 |
| 高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、現在に至るまで同一力士への金星配給の最多記録となっている後に曙が貴闘力戦でタイ記録を樹立。 |
| 横綱・北の湖とは好敵手であり、2人で輪湖時代(りんこじだい)を築いた(北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角)。 |
| また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。 |
| ちなみに1989年3月場所で優勝した千代の富士も14日目の大乃国戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場している(但し休場ではなく不戦敗の扱い)。 |
| 横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、74年には輪島の牙城を脅かすようになる。 |
| 3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。 |
| 北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。 |
| 翌75年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。 |
| この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、土俵上をバタバタと動き回っては自滅し『勝ち方を忘れた』と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながちうがった見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。 |
| 角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。 |
| だが輪島は復活した。 |
| 1976・77年は12場所のうち輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))実現した。 |
| 優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲して、真の「輪湖時代」を迎えたといってよい。 |
| 1976年~1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は、下記の通りである。 |
| 1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)。 |
| 1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)。 |
| ※このように、1976年~1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した。 |
| (そのうち、相星決戦は4度である)。 |
| ※また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現。 |
| この時は、輪島勝利。 |
| 優勝決定戦も輪島が制し、逆転優勝を果たした。 |
| 北の湖は、場所後横綱昇進を果たしている。 |
| このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。 |
| 北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。 |
| 1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録した頃が、輪島の絶頂期であった。 |
| また、1975年9月~1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。 |
| 2位は、朝青龍-白鵬の7回。 |
| ちなみに、輪島-北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、曙-貴乃花の27回に次いで、史上2位である。 |
| 1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰え等から、北の湖の後塵を拝することが多くなる。 |
| この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。 |
| しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。 |
| 1979~1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。 |
| 若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたのは立派であると言えよう。 |
| また、輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖に殆ど勝てず、輪島の援護射撃ができなかった事や、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないなど、輪島に不運な一面が多々あったのも否めなかった。 |
| 1981年3月場所中に引退し、停年退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※現在の花籠部屋とは別)を継承した。 |
| しかし、1982年4月妻(師匠・大ノ海の長女)は自殺未遂(その後離婚)、1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。 |
| (これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある)結局これが原因で、その年12月に廃業(部屋は消滅、力士は花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍)、さらに若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。 |
| 現役時代に、横綱ながらも週刊ポストに「輪島の美女対談。 |
| 」と称する対談コーナーを持ち、当時の人気アイドル達を招いて、かなりくだけたトークを繰り広げ話題になったが、一方で「品が無さ過ぎる」というクレームもかなり来たと言われ、同コーナーは半年で打ち切られている。 |