| 1960年代後半(昭和40年代)以降は、なつメロ歌手として活躍する一方、テレビ番組の司会者やコメンテーターとしての才能を発揮。 |
| 歌手というよりタレントとして認知されていく。 |
| B級歌謡番組やモノマネ番組などの「審査委員長」を務める事が多く、紹介の時に「近江俊郎大先生!!」などと紹介される(フジテレビ系列での正月番組に於ける、高橋圭三的なポジションとも言える)。 |
| 歌手時代の活躍を知らない世代にとっては「何か判らないけど、とにかくスゴい人」という印象があった(常に呼び名は“近江先生”や“先生”であった)。 |
| 往年のスター歌手でありながら、本人も偉ぶらない洒脱なキャラクターを通していたことから、この頃には既に好々爺の風格があった。 |
| ただし、30歳で中年、50歳で初老といわれた当時の実年齢からすれば相当に若々しいイメージを維持している。 |
| 萩本欽一のバラエティー番組テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」出演時は「トウシロウ君」の名でレギュラー出演、ユーモラスな学生服姿と飄々とした演技でお茶の間を沸かせたこともある。 |
| やはり萩本が主演だったフジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」で審査員を務め人気を得る(萩本も近江の人気復活に貢献した)。 |
| 1985年の年末に同じ審査員だった立川清登が急死し、翌年1月に異例の追悼特番を放送し、出演者代表で弔辞を読み号泣した。 |
| 一連の喜劇映画を監督した経緯からお笑いにも造詣が深く、「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)の審査員も永年務めていた。 |
| このほか「ドバドバ大爆弾」(テレビ東京)等でも肩書きは常に審査委員長であった。 |
| 「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」(日本テレビ)が末期のテレビ出演であったが、この時もとんねるずが久々にコントネタを披露する際の審査員役であった。 |
| すなわち、近江には「審査員」のイメージが非常に強かった。 |
| 1976年(昭和51年)、「惜しまれるうちに引退したい」と歌手としての引退を宣言(後年それは夫人の想いを酌んだものであることを明かしている)、全国縦断リサイタルを行い、最終公演はNHKホールで「ビッグショー」の公開録画と兼ねて行われた。 |
| しかし1979年に恩師である古賀政男の追悼音楽会が開かれるにあたって3年ぶりにマイクを握った。 |
| この音楽会において「一番世話になった人の会に美空ひばりが出ないのは人の道に外れている」と発言し、メディアの話題をさらった。 |
| しかし、美空の不出演は長期劇場公演中のためであり、美空自身には出演の意思はあった。 |
| もっと早期に製作側の出演要請があればスケジュール調整も可能であったと所属プロダクション側も説明している。 |
| このような事情が近江に伝わっておらず、持ち前の義侠心とそそっかしさから出た勇み足的発言と現在は解釈されている。 |
| その後、もともと幼少時から可愛がっていた美空とは和解が成立。 |
| 1985年放送の「思い出のメロディー」では久々に競演し、にこやかに両者が話すシーンも放送されている。 |
| この公演以後「原則、歌手は引退」としながらも、NHK「思い出のメロディー」(1985、86年)やテレビ朝日「題名のない音楽会」(1989年)など、メディアで往年のヒット曲を披露することは少なくなかった。 |
| また「今夜は最高!」へ出演した際にはこの言動をパロディ化したコントを自ら演じている。 |
| 周囲の要望と、引退を薦めたとされる夫人から諒承を得たことから1990年(平成2年)にテレビ東京「年忘れにっぽんの歌」で歌手として復帰。 |
| 舞台劇「影を慕いて」や歌手協会主催の「歌謡祭」などにも活躍を始めるが、1991年10月、1990年に患った前立腺癌が再発したことを公にし「絶対勝ってみせる」と語るも、その直後急激体調は悪化。 |
| 入退院を繰り返し、1992年7月5日に肝不全のため死去。 |
| 命日は誕生日の僅か2日前である。 |
| 亡くなる次の日には「昭和歌謡大全集・第2弾」(テレビ東京)の収録予定が入っており、また9月には神奈川県内数ヶ所でリサイタルを開く予定もある中、無念の死であった。 |
| なお、実兄との関係で逝去するまで大蔵映画の副社長を務めていた。 |